ヘンリー・D・ソローの「市民的不服従」 白岩英樹『講義 アメリカの思想と文学』より[後篇]
記事:白水社
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【Civil Disobedience Audiobook by Henry David Thoreau】
「市民的不服従」を読んでいきましょう。1848年にソローがライシーアムで行った講演が基になっています(引用原文は前掲書から)。
I ask for, not at once no government, but at once a better government....I think that we should be men first, and subjects afterward. It is not desirable to cultivate a respect for the law, so much as for the right. The only obligation which I have a right to assume, is to do at any time what I think right. (pp.266-267.)
全体として、政府や社会と個人との関係について論じられています。極端な原理主義者と捉えられることの多いソローですが、最初の文では “not〜, but ...” や “better” を用いて、きわめて現実的な話として語っていますよね。非現実的な無政府状態を望んでいるわけではなく、よりよい政府を造るための取り組みをいますぐ始めたいんだ、と。
続く二文目では、ソローは生粋の超絶・超越主義者らしく、国家や国民という、ややもすると強大で抵抗しようがないように見えるカテゴリーさえ、個々の内面に比べれば、従属物に過ぎないのだと喝破します。21世紀の今日では当然とされる真理です。しかし、時代は近代国家としてのアメリカが自国の権力を肥大化させると同時に、他国との駆け引きや競合が激しさを増していた頃合いですから、ソローがこのように断言するには、よほど強い覚悟と気概を必要としたはずです。
そして、最後の二文では、自己信頼に基づいた個々人の判断に全幅の信頼が置かれています。個々の内面を土台にして、ひとりひとりが言動で具体化していく以外に「まともな政府」など造りようがないではないか。エマソンも含めて、超絶・超越主義者たちの思考は、基本的にこの経路をたどります。すべては個人的かつ身近な些事から始められ、そこから社会的な取り組みへと連結されるんですね。とりわけソローに関する限り、その傾向はさらに強まります。奴隷の解放も、世直しも、なにより自己の解放から、そして自己の再構築から始められるんですね。いささか抽象的な傾向が強かったエマソンの思想と比較すると、ソローが思考する経路はきわめてプラクティカルです。エマソンが抽象的な理論として語っていた民主主義の構築も、ソローにかかると、たちまちのうちに地に足を着けた議論に結びつき、具体的な行動として提示されます。ちょうど、今日の草の根民主主義さながらに。
I was not born to be forced. I will breathe after my own fashion. Let us see who is the strongest. What force has a multitude? They only can force me who obey a higher law than I....If a plant cannot live according to its nature, it dies; and so a man. (pp.279-280.)
“be forced” と “breathe”、“a multitude” と “a higher law”、そして最後は “plant” と “man”。キーワードとなる単語を対にして喩えるところが、きわめて修辞に富んでいます。どこかで反論を試みようと読み始めても、いつのまにか膝を打っている。そんな巧妙なレトリックがあります。
ひとつ前の引用箇所でも、ソローは「法律」よりも「正しいこと」を優先させていました。ここではそれらの概念が、「数が多いこと」と「より高い法則」に置き換えられているんですね。こうした考えの根本には、やはり「自然界の法則(the law of all nature)」を最優先したエマソンの思想があります。制度上の法律というものは、ある特定の集団が社会生活を安定させるために、一時代の実情に合わせて設計・制定されたものです。あくまで、より高尚な倫理やモラルに従うために作られたものではない。その点からすれば、個人の内的ネイチャーに根差した「普遍的な法則(the universal law)」のほうが、字義どおりに「普遍性」を帯びているに決まっています。奴隷制の維持と戦争の推進という、政府の決断に抗議したソローからすると、当然のことだったのでしょう。事実、それらが「自然界の法則」からも、「普遍的な法則」からも、遠く隔たった愚策であったことは、のちの歴史がしかと証明しています。
それならば、「正しいこと」や「より高い法則」、「普遍的な法則」を基盤にした国家像とはいったいどのようなものなのでしょうか。もし具体的なイメージがあるのだとすれば、それが個人と政府・社会との関係性に現れていなければ、所詮は絵に描いた餅に過ぎません。実現不可能な理念を錦の御旗として頑迷に掲げ続けるならば、行きつく先は無政府主義と何ら変わらないわけです。しかし、そのような帰結は、無政府の状態を望んではいなかったソローにとって、不本意だったはずです。彼は「市民的不服従」の最終パラグラフで、理想の国家像について次のように語り、論を閉じています。
There will never be a really free and enlightened State, until the State comes to recognize the individual as a higher and independent power, from which all its own power and authority are derived, and treats him accordingly. I please myself with imagining a State at last which can afford to be just to all men, and to treat the individual with respect as a neighbor....which also I have imagined, but not yet anywhere see. (pp.287-288.)
往々にして二項対立として捉えられがちな個人と国家との関係性。それをいったん解きほぐすことで、「まともな政府」を造る筋道を丁寧に説いています。ひとりひとりに内在する「崇高で独立した力」が起点となって、そこから「国家の力と威信」が生まれる。だから、国家はひとりひとりの個人をこそ尊重し、大切にしなければならない。そういう道理です。
「この世でたったひとつ価値あるものは、活き活きした魂なのです」。エマソンは「アメリカン・スカラー」の結びでそう断言しました。ソローはその主張をさらに発展させると同時に、現実的な議論へ結びつけているんですね。「活き活きした魂」を実現するにしても、もっとも深刻な阻害要因と化している国家や社会へ思考の触手を伸ばさなければ、その試みさえ台無しになってしまうではないか。そういうわけです。
自然観察においても、自己を包含する自然と自分自身とを切り離すことなく、それらの相互関係として自然界を理解したソロー。個人と国家・社会との関係を論じるにあたっても、その知見は十二分に活かされています。彼の内なるネイチャーは、ソローをして彼固有の思想を活き活きと表現せしめているのです。
【白岩英樹『講義 アメリカの思想と文学──分断を乗り越える「声」を聴く』(白水社)所収「第4講 ヘンリー・デイヴィッド・ソロー」より】