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大統領のではなく、普通のロシア人の素顔を知るために

記事:明石書店

ロシアの暮らしと文化を知るための60章(沼野充義・沼野恭子・坂上陽子編著、明石書店)
ロシアの暮らしと文化を知るための60章(沼野充義・沼野恭子・坂上陽子編著、明石書店)

 2024年9月現在、ロシアは異常な事態にある。改めて解説するまでもなく、プーチン政権下のロシアは2022年2月に独立国であるウクライナに対して軍事侵攻(特別軍事作戦)を開始し、いまなおロシア・ウクライナ間の戦争は続き、停戦・和平への道も見えてこない。

 その結果、日本ではウクライナに同情する世論が急速に高まると同時に、ロシアに対する嫌悪感が強まった。戦争を背景に対ロシア感情が悪化するのは避けがたいことだとしても、戦争に直接関係のないロシアの芸術や文物まで忌避する傾向さえ一部に見られるようになったのは憂えるべき事態ではないだろうか。

 当たり前のことだが、ロシアが何世紀にもわたって築いてきた素晴らしい文化や芸術がすべて戦争のせいで突然価値を失うはずはないし、戦争のさなかでもロシアの人々は普通に人間としての日常の営みを続けている。むしろ、「謎の国」ロシアを理解するためには、国際的ニュースの陰に隠れて外国人には見えにくい普通のロシア人の暮らしや文化をもっとよく知ることが必要ではないだろうか。そもそも最近の日本ではロシアはもっぱら戦争報道で取りあげられるばかりで、大統領の顔はよく知られているが、普通の暮らしを営むロシア人の素顔はあまり知られていない。考えてみれば、人はよく知らないものを好きになることはできないだろう。多くの日本人がロシアをなんとなく恐ろしい国だと思い、好感を抱かないのも、実はロシア人を知らないからという面もあるのではないか。

 本書はこういったことを念頭に置きながら、ロシアの暮らしと文化に焦点を当てたものである。扱う時代は、19世紀以前にさかのぼる場合もあるが、大部分は20世紀以降から現代を視野に入れている。ロシアを知るためのガイドブックの類はこれまでもかなり出ているし、本書の編者たちもこれまでそういった本の編纂に携わってきた。しかし、本書が従来の類書と異なるのは、普通のロシア人が何を食べ、何を考え、何を楽しみ、何を大事にしているか―要するにどのように生きているのかを描き出すことに努めている点である。現代的な感覚を生かすために、各章はなるべく若手のロシア事情通に書いていただいた。ここには専門的知見や情報が分かりやすく盛り込まれているが、可能なかぎり執筆者の個人的なロシア経験や生活感覚を生かすような書き方になっている。そのほか時節柄、やむを得ず何人かは匿名での参加になったが、ロシア人にも執筆していただいた。

 本書は初めから順番に通読する必要はない。読者の皆様には興味を惹かれた章から気の向くままに読んでいただきたい。どの章を読んでも、きっと巨大で多様なロシアの知られざる一面が見えてくるだろう。

 本書を通して浮かび上がってくるのは、決して100%バラ色の理想的なものではないにせよ、ロシア人が創意工夫を凝らし、可能なかぎり豊かで人間的な生活を送っている姿ではないかと思う。

 日本での対ロシア好感度の低さとは対照的に、ロシアでは日本文化の人気は高く、日本との文化交流は意外にも盛んに行われてきた。しかし、残念ながら、複雑な歴史的経緯から日ロ関係は正常とは言えず、両国間には平和条約さえ結ばれていない現状である。政治的な問題はさておき、この困難な時代にも文化交流の火を絶やすことなく進めていくことこそが大事だろう。ただし、ここで言う文化交流とは、国家的プロパガンダのためのものではなく、あくまでも人間と人間の心が通い合うような交流のことだ。本書もそのための一助となれば幸いである。そして、最後に、今なお続いている戦争が一刻も早く終結し、ウクライナとロシアの両方の人々に平和な暮らしが戻ってくることを願って、「はじめに」を結ぶこととしたい。

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