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「ロシア最大の少数言語」が学べる、日本初の入門書! 『ニューエクスプレスプラス タタール語』

記事:白水社

櫻間瑞希・菱山湧人著『ニューエクスプレスプラス タタール語』(白水社刊)は、「ロシア最大の少数言語」であるタタール語の日本初の入門書。
櫻間瑞希・菱山湧人著『ニューエクスプレスプラス タタール語』(白水社刊)は、「ロシア最大の少数言語」であるタタール語の日本初の入門書。

タタール人にとっての「トゥガン・テル(祖なることば)」

 「タタール語」ということばをご存じだろうか。日本ではあまり知られていないが、無理もない。つい先日まで、このことばを日本語で学ぶことはできなかったのだから。

 タタール語は、世界中に散らばるタタール人によって話される言語だ。ウズベキスタンやカザフスタンなどの中央アジアの国々、そこから地続きの新疆ウイグル自治区、さらにはトルコ、フィンランド、ドイツ、アメリカなど、タタール人が多く暮らす土地を挙げるときりがないが、その全人口のうち3分の2ほどはロシア国内に暮らしている。多くの民族が住まうロシアにおいて、タタール人はロシア民族に次ぐ人口規模の民族──つまり、最も人口規模の大きな少数民族という位置付けにあり、ロシア国内でもさまざまな分野でタタール出自の人々が活躍している。たとえば、フィギュアスケートで活躍するアリーナ・ザギトワ選手はタタール人である。

オリンピック金メダリストのアリーナ・ザギトワ選手(2002年生まれ、Алинә Илназ кызы Заһитова)、2018年。Alina Zagitova at the 2018 Winter Olympic Games - Awarding ceremony[original photo: David W. Carmichael – CC BY-SA 3.0]
オリンピック金メダリストのアリーナ・ザギトワ選手(2002年生まれ、Алинә Илназ кызы Заһитова)、2018年。Alina Zagitova at the 2018 Winter Olympic Games - Awarding ceremony[original photo: David W. Carmichael – CC BY-SA 3.0]

 ロシア中西部、首都モスクワから東に800kmほどの地点にタタールスタン共和国というタタール人の民族共和国がある。共和国と冠されてはいるものの、この名称からイメージされるような独立した国家ではなく、あくまでロシアという連邦国家を構成する自治体のひとつである。ロシア国内に暮らす約500万人のタタール人のうち、半数弱はこのタタールスタン共和国の域内に居住している。タタールスタン共和国の人口のうち、およそ半数はタタール人だが、残りの半数にはロシア民族、チュヴァシ人、ウドムルト人、ウクライナ民族など、さまざまな背景の人が含まれる。

ロシアにおけるタタールスタン共和国の位置(著者作成)
ロシアにおけるタタールスタン共和国の位置(著者作成)

 このように、独立した国家を持たず、そして、境界をまたいで広い地域に散らばるように暮らすタタール人は、常に居住地で社会的に優位な言語の影響下にある。タタールスタン共和国においても、タタール語はロシア語とならんで国家語に定められてはいるものの、あくまでロシアの一部であることから、政治や経済、教育など、あらゆる分野においてロシア語が汎用されてきた。さらに、共和国に暮らすのはタタール人だけではないことから、多くの場面において誰もが理解するロシア語が優先されがちである。

 そのほかの地域や国に暮らすタタール人の場合は言わずもがなである。タタール人のなかには、タタール語を不得意とする人や、まったく話せない人も珍しくない。それでもなお、タタール語を自分にとっての「トゥガン・テル(祖なることば)」だと考える人は少なくなく、タタール語はタタール人の象徴のひとつとして捉えられることもある。幼少期に聞いたタタール語の歌や、タタール語で残った料理や祝祭行事、親族の名称、祖父母が話していたタタール語の響きの記憶を、自身がほかでもなくタタール人であることのよりどころとする人とも多く出会ってきた。

 

「将来の夢は、日本語でタタール語の学習書を出版することです」

 とはいえ、多くの親は居住地で優位な言語――たとえばロシアではロシア語、ドイツではドイツ語での教育を子に受けさせたがり、タタール語教育の場は年々縮小傾向にある。このようにタタール語を取り巻く環境は厳しいものとしか言いようがないが、この状況を憂う人も少なくないのがせめてもの救いである。近年のタタールスタン共和国では、タタール語の振興を目指した取り組みが官民を問わずさまざまなレベルで展開されている。

 そのうちのひとつが、毎年4月にカザンで行われる国際タタール語オリンピックである。オンラインで行われる予選試験の上位得点者およそ500名が毎年カザンに招待され、タタール語やタタール文化の知識を競う。大会は3日間にわたって実施され、文学や歴史の知識を問う筆記審査、作文審査、プレゼンテーション審査、そして伝統的な歌や踊り、詩の朗読などによる芸術審査などさまざまな角度から審査される。2022年現在、これまでに9回の大会が行われてきたが、うち3回の大会で日本出身の参加者がグランプリを獲得した。

民族衣装に身を包むタタール語オリンピックの参加者たち(2015年)
民族衣装に身を包むタタール語オリンピックの参加者たち(2015年)

 「私の将来の夢は、日本語でタタール語の学習書を出版することです!」とうっかり述べてしまったのは、2017年4月、第5回タタール語オリンピックの表彰式でのことであった。どういうわけだかグランプリの栄誉に預かってしまった私は、タタールスタン共和国大統領を前にしてこのように高らかに宣言してしまったのであった。割れんばかりの拍手に包まれながら舞台を降りた私は、やってしまった、とも思った。はたして自分にそんな大層なものが書けるのだろうか、そもそも企画として成り立つのだろうか、という心配から、この約束を果たせるのかどうかは長らく悩みの種ともなった。

 

継承語として、学習言語として

 各地のタタール社会でタタール語がどのように継承され、あるいは、どのように損なわれたかを研究してきた私は、ひとつの結論として、まずは学習機会が身近に確保されていることが重要だと考えてきた。

 現在、日本は必ずしも多くのタタール人が暮らす土地ではないが、1917年に勃発したロシア革命から逃れてきたタタール人を多く受け入れた歴史もある。「白系ロシア人」と呼ばれる人々のなかには、タタール人のようにロシア民族以外の出自の人も少なくなかった。日本に渡った人々の多くは戦後に第三国に渡っていったが、日本に根を下ろしたタタール人もいた。私の祖母はそのひとりだった。かつて日本のお茶の間で活躍したロイ・ジェームス(出生名ハンナン・サファ)もタタール人であった。

櫻間瑞希・菱山湧人著『ニューエクスプレスプラス タタール語』(白水社刊)
櫻間瑞希・菱山湧人著『ニューエクスプレスプラス タタール語』(白水社刊)

 今日、日本に暮らすタタール人の血を引く若い世代の多くはすでに4世、5世となった。そのほぼ全員が日本語環境のなかに暮らし、日本の生活のなかに溶け込んでいる。それでもなお、自分のルーツにつながるタタール語を学んでみたいという声はあった。

 また、タタール人以外のタタール語学習者が増えることもまた、タタール語世界の活力を底上げするうえでは重要な要素である。タタール人が多く暮らす土地では、前述のとおり、タタール語をめぐる厳しい状況が続いている。だからこそ、遠く離れた日本でタタール語の学習書を作ることは、いつか必ずやるべき仕事だと思ってきた。そして、うっかり宣言までしていたので、出版が決まって正直なところ、ほっとしている。

 

本書ができるまで、そして、託した願い

 本書『ニューエクスプレスプラス タタール語』は、さらに第2回タタール語オリンピックで優勝した同志の菱山湧人氏にも声をかけて、足かけ4年近くの時を経て世に出るものである。菱山氏にとってもタタール語の学習書を日本語で書くのは夢だった。タタール世界の言語状況を調べてきた言語社会学者の私にとって、タタール語を専門とする記述言語学者の同世代の同志に恵まれたことはこのうえなく幸運なことであった。

 これまでにタタール語やタタール文化、歴史に関する学術書や学術論文は日本語でも公刊されてきたが、日本語で書かれたタタール語の学習書が世に出るのははじめてのことである。近接言語に関するものも含め、これまでに発表されてきたさまざまな研究成果を参照しながら、文法用語をどのように設定するか、どの語彙を扱い、どのような日本語の訳語を与えるか、どのようなシチュエーションの会話スキットにするかなど、ずいぶんと話し合いを重ねた。何もかもが手探りで、著者のあいだで原稿が行き交った回数はおそらく100回をゆうに超えるだろう。

櫻間瑞希・菱山湧人著『ニューエクスプレスプラス タタール語』(白水社刊)目次
櫻間瑞希・菱山湧人著『ニューエクスプレスプラス タタール語』(白水社刊)目次

 本書の刊行により、これまでロシア語やトルコ語を経由しないと学べなかったタタール語が、日本語から直接学べるようになった。全20課からなり、本書中に登場する語をすべて合わせると1200語ほどになる。スキットはカザンに留学してタタール語を学ぶ日本人の勇樹と、カザンで知り合って友人となるタタール人のリリヤの会話が中心で、カザンに留学すると起こりがちなシチュエーションをふんだんに盛り込んだ。

櫻間瑞希・菱山湧人著『ニューエクスプレスプラス タタール語』(白水社刊)スキット
櫻間瑞希・菱山湧人著『ニューエクスプレスプラス タタール語』(白水社刊)スキット

 近年は実際に、カザン連邦大学と学術協定を締結する日本の大学も増えつつあり、カザンは日本からロシアに留学する学生の行き先のひとつにもなっていた。昨今の情勢によりロシア留学そのものが厳しい状況ではあるが、これからカザンに留学予定の方、あるいはかつて留学したもののタタール語を学ぶ機会がなかった方にも勧めたい。また、トルコ語やウズベク語などほかのテュルク諸語をすでにご存じの方には、テュルク世界の新たな扉を開くきっかけになるだろう。自身のルーツにつながる方にとっても、あるいは、新しく言語を学んでみたい方にとっても、新たな境地をひらくきっかけになってほしいと、著者一同願ってやまない。

 

 櫻間瑞希

 

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