「亡命」「ユートピア」「世界」
『亡命文学論』は2002年刊、『ユートピア文学論』は翌03年刊で、それぞれサントリー学芸賞と読売文学賞を受賞している。この2冊の増補改訂版が、今年4月と6月に相次いで出版された。装丁は3月に亡くなった菊地信義さん。20年刊の『世界文学論』と合わせた3部作計1800ページ(いずれも作品社)が完結した。
「ちょっと面白そうなものを見つけるとつい手を出す、気が多いタイプ。『世界文学論』の関心がどんどん広がって出版に時間がかかり、既刊2冊の内容に関わる新たな仕事も重ねた。増補版のページ数は5割増。もう新しい本と思っていただくしかない」。昨年10月に脳出血で一時療養を余儀なくされたが情熱を失わず、シリーズ完結にこぎつけた。
冷戦下の1980年代に米ハーバード大学に留学して以来、旧ソ連・東欧圏からの亡命作家らと交流してきたことが、『亡命文学論』の根底にある。政治的亡命を余儀なくされた作家たちの時代を経て、この数十年で二項対立の図式を超えた移民・難民、人々の移動の活発化や浮遊感が文学的問題になったとみる。
「故郷・祖国を追われた亡命者はもう特権的存在ではない。私たちは皆何らかの意味で越境者、ディアスポラであり、中ぶらりんの状態にある。人はどこから来てどこへ行くのか。人間存在の根本的なあり方を問う移動の文学が紡がれている」
『ユートピア文学論』で論じたのは、かつて中国の桃源郷やトマス・モアなど文学的想像力が描いた「ユートピア」の現代文学における姿だ。沼野さんは15年にノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチの名を挙げる。『戦争は女の顔をしていない』に始まる5部作「赤い人間 ユートピアの声」の最後の1冊は『セカンドハンドの時代』だ。
「革命による国家建設や経済的豊かさの上に成り立つユートピアは、たやすくディストピアに転じる恐れを秘めていた。希望を抱く前提が崩れ、使い古しの二番煎じしかないなかで、それでもなんとかやりくりするしかないという問題意識のあらわれだ」
時代の変遷 部分から全体見通す
沼野さんはロシア・東欧文学という「部分」から世界文学の「全体」を見通そうとしてきた。バルト三国やチベットなど「辺境」の文学も偏愛し、日本文学の海外への紹介にも力を入れた。その歩みが結実したのが『世界文学論』だ。
「ホメロスやゲーテ、プルースト、源氏物語などの名作リストが世界文学だとみなす教養主義とも、一国、一言語、一文化の枠で考える『陣取り合戦』とも違う。洋服のすその切れ端を手に取って眺めながら全体の感覚を持つ。部分が全体に通じるような視点を持つこと、その現在進行形の営みが世界文学だ」
ロシア軍のウクライナ侵攻は、沼野さんにとっても容認できない事態だ。
「一国、一言語、一文化で切り分けられないスラブの言語、歴史、宗教などの文化をふまえるなら、なおさらプーチン氏の侵略は正当化できない。だが、ロシアを学ぶことをやめてはいけない。むしろ危機の今だからこそ、本当のロシアとは何なのかを考えなければならない」
3部作の完結にあたり、『ユートピア文学論』の最後に「Zの逆襲」という一文を置いた。3月に日本ペンクラブであった講演の改稿で、「特別軍事作戦」などと言葉を言い換える「言葉の虐殺」や、人々の共感(エンパシー)が届く先が偏ることで生じる善悪の単純化について警鐘を鳴らしている。
「この3冊には青春時代から一貫して追い求めてきた文学、命のかけらが詰まっている。単に現代世界文学論の先駆的な議論としてだけではなく、今も通用する現代性を感じ取ってもらえれば」
妻でロシア文学者の沼野恭子さんと二人三脚の研究人生。通称「ヌマヌマ・ユニット」が紡いできた豊かな時間を味読できる3冊でもある。(大内悟史)=朝日新聞2022年10月12日掲載
◇
ぬまの・みつよし 1954年生まれ。スラブ文学者。名古屋外国語大学教授、東京大学名誉教授。著書に『世界文学から/世界文学へ 文芸時評の塊1993-2011』、訳書にスタニスワフ・レム『ソラリス』、『ナボコフ全短篇』(共訳)など。