韓国文学に勢いがある理由
斎藤:昨今、韓国文学は勢いがあるねとよく言われます。面白いから市場が拡大したのですが、面白いと感じられるようになったのにはいくつかの背景があります。
韓国は非常に早いスピードで経済発展した国家です。今から50年前の韓国人と日本人ではその生活に相当な違いがありましたが、今では表面的にはほとんど変わりません。このことは、話題になっているチョ・ナムジュさんの小説『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んでいただければ分かるでしょう。
本書は1982年に生まれたキム・ジヨンという女性の半生記ですが、彼女の母親オ・ミスクさんも重要な役割を演じます。オ・ミスクさんは70年代に工場で働いていた人ですが、彼女の青春時代は、日本で言ったら『あゝ野麦峠』の頃みたいな感じです。しかしその娘であるキム・ジヨンさんが大学を出て就活で悩む頃の体験は、現在の日本の女の子の実感とほぼ変わりません。
かつて韓国文学のテーマは、植民地支配を受けた経験、南北分断、朝鮮戦争、軍事独裁政権による人権弾圧など、歴史の重みを背負った大きなものであることがしばしばでした。このことが韓国文学の重要な柱であると同時に、外国での読者を獲得する上では壁となってきました。
一方で、現在、日本でも人気のあるハン・ガン、パク・ミンギュ、チョン・セランといった作家は、もう少し個人に焦点を当てた物語を書くことが多く、日本の読者でもすっと読めます。彼らは今30~50代前半ぐらいの若手・中堅作家で、韓国の民主化以降に生まれたり、子ども時代や思春期に民主化を迎えた世代です。韓国で急速に中産層が形成されて厚みを増す時代に育ち、我々と似たような洋楽を聞き欧米の映画を見て育ち、また同時に日本の小説などもよく読んでいます。ですから、感受性のベースに共通点が多い。その上彼らが描くのは、非常に普遍的な生と死の風景であったり、日本でも共通の課題である格差社会や非正規労働者の急増によるさまざまな形のいわゆる「生きづらさ」、老後への不安などです。書くことも、書き方も、かなり近いところにある。
そもそも同じアジア圏の非常に近い国なので、分かり合える部分はとても多いです。食べている野菜や魚の種類だって非常に近い。ただし味付けが違うのですね。「似てて違うのが面白い」、そこがポイントになります。
すんみ:最近、友達が自主的に韓国文学を読み始めて、とてもびっくりしました。それまでは韓国文学に手を伸ばすには壁のようなものがあったのに。ブームだなぁと感じています。
韓国はものすごいスピードで物事が動いています。どんどん新しい課題に直面して、結婚・出産・家族などいろんな価値観が揺るぎ始めていて、疑問を持つようになってきている。新しい文化を作っていこうという気概を感じます。
濱中:日本でも『キム・ジヨン』が13万部突破と話題になっていますが、担当編集の井口さんに本書を出そうと思ったきっかけについてお聞かせいただきたいです。
井口:フェミニズムの本を出したいと斎藤さんにご相談し、『キム・ジヨン』を教えていただきました。日本でも共感が得られるとは思いましたが、ここまで多くの強い共感が得られるとは思いませんでした。
韓国文学の魅力は「生命のバリエーション」
斎藤:私は「韓国文学の魅力は何ですか」と尋ねられたとき、「生命力のバリエーション」と答えます。生命力というと、パワフルでバイタリティがあることを想像するかもしれませんが、私は、非常に体温が低く基礎代謝も低いことも含めてイメージしています。中身は「生物多様性」、つまり、それぞれの個性を最大限に伸ばすことによって環境の異変に備え、生き延びようとする力ですね。
例えば、ハン・ガンという女性作家の作品は世界的に人気がありますが、彼女の作品に出てくる人たちは、病気の人や体力のなさそうな人が多いです。彼女の作品の『ギリシャ語の時間』。主人公は女性で、離婚し、幼い息子を元夫にとられてしまったショックなどで声が出なくなり、仕事も失います。八方塞がりです。主人公は、人との交わりを最低限におさえ、生活をミニマムにするとともに、いきなり古代ギリシャ語の勉強を始めます。それによって自分の言葉を取り戻そうとしているらしいのです。困難に際して、古代ギリシャ語という難解なものにわざわざ向かっていく。非常に内向的なエネルギーですが、強度があります。これも生き延びるための戦略であり、生命力の発揮の仕方として個性的なバリエーションではないかと思います。
一方で、『カステラ』や『ピンポン』などで日本でも知られるようになったパク・ミンギュは、叙情性と批評性の合体というのがその生命力の姿だと思います。彼は、社会において、意見されることはあっても自分の意見を述べる機会のない人々を好んで描きます。そうした人々が作品の中では聞き手を得て、自分の考えを語ってくれるのですが、それが叙情性と批評性のみごとなミックス具合を見せます。切なくてたまらないので分析に走り、持論を展開する、そこが比類のない面白さなのです。
韓国の作品を読んでいますと、ラストが絶望的である、救いがないと言う方が時々いらっしゃいます。それはかなり当たっています。『キム・ジヨン』もそうで、ジェンダーの問題に理解があるのかなと思われる医者が登場してエンディグに至るのですが、この医者が最後のひと言で読者を失望させて終わります。でも、著者のチョ・ナムジュさんは、この小説はこれでいいんだと、自分は現実がこうであることを淡々と示したので、ここで何かを考えた読者があとは個々に完成させてくれればいい、と。
もう一つ適切な例が、キム・ヘジンという女性作家が書いた『娘について』という小説です。この作品はLGBTの問題だけではなく、人間は自分の不寛容にどれだけ立ち向かえるかという普遍的な命題を扱っています。
主人公は50代の女性。リベラルな人なのですが、自分の娘がレズビアンの恋人を連れて自宅に転がり込んでくると、それを受け入れられない。なぜそれができないのか、こんなに苦しいのか、でもできないものはしょうがないじゃないかということを、このヒロインは直球で語り続けます。で、それほど率直で真摯な母親であれば、物事が好転して、ほのかな希望を提示して終わってくれないかと思ったりしますが、全然そうはならない。見ようによっては救いがないのですが、自分に対しては非常に誠実なのです。
この、完膚なきまでに自分というものを吐き出してみせる肺活量の豊かさは、日本文学にはめったに見られません。呼吸というものは大きく吐いてこそ、大きく吸い込むことができるのですから、ここで安易な救いを持ち込んだら、貴重な肺活量が無駄になります。つまり、救いのない物語を書けることこそが生命力でもあるわけです。
ここまでの何冊かの紹介でも、韓国の小説は私小説ではないことが感じられるのではないかと思います。かといって、先に触れた、歴史性を真っ向から背負った大きな物語とも違います。私の考えでは、大きな歴史の物語と、小さな個人の物語が交錯するときに風が起きるわけですが、その風をさまざまに敏感に描きとっているのが現在の韓国の小説ではないかと思います。
すんみ:仰る通りだと思います。救いがないという「否定」の感覚が非常に大事なんだと思います。斎藤さんが訳された、チョン・セランの『フィフティ・ピープル』は、大学病院を舞台にして、そこにたまたま居合わせた人々の話です。渋谷のスクランブル交差点と一緒で、すれ違ったり、また離れたり。言葉では捉えきれないような人々を描いている。流動性や運動性が印象的です。
キム・グミの『あまりにも真昼の恋愛』では、新しい社会の気配を感じます。捉えきれない何かを表現して、感覚に訴えるようなものがあります。そういう部分でも生命力を感じますね。
「似ていて違う」これからの韓国文学
斎藤:現代文学の背景に歴史の重みが透けて見えます。今の若い世代の作品にも、歴史の記憶にもとづくひだがさまざまに存在して、それを知らなくても十分に読めるのですが、その意味を理解すると二重、三重に奥行きが広がる。奥行きの果てに実は日本の姿が映っていることも稀ではなく、このようなことが、「似ていて違う」の中身であり、読む人を捉えるのだと思っています。
私が今注目しているのは、若い脱北女性たちの手記です。今読めるものとしては、イ・ヒョンソの『7つの名前を持つ少女』とパク・ヨンミの『生きるための選択』があります。もちろんさまざまな制約を受けて書かれてはいるでしょうが、彼女たちが洗脳教育のくびきを逃れて自分自身の言葉を獲得し、ジョージ・オーウェルの『1984』や『動物農場』を実感を持って読んでいく場面は読み応えがあります。非常に有能な彼女たちは韓国で大学に通い、国際舞台でスピーチをして注目を集め、これらの書物は英語で書かれています。こうした女性たちは今後も続いて登場するでしょうし、その中から世界文学の書き手が生まれることもあるかもしれません。
韓国文学というと韓・日2国間の関係の中で見がちになりますが、実は韓国文学は広がりを持っています。植民地支配を受けて以来、彼らの歴史体験は中国からロシア、中央アジア、またハワイやアメリカへと広がり、さらに現代に至っても移民する人が多いため、韓国人の多くは海外に親戚を持っていますし、英語で文を書く人も少なくありません。過去には、在米韓国人が在日韓国人の物語を書くという一種アクロバティックな小説、ミンジン・リーという作家の『パチンコ』という小説がアメリカで出て、大きな話題となりました。これもやがて日本でも刊行されるでしょう。
最後に大きく俯瞰するならば、朝鮮半島では、高度に発達しきってしまった先進国と、稀にみるほど立ち遅れてしまった国とが軒を接して休戦状態のまま70年近く経っている。そこでは不断に命が失われると同時に、常にその態度が話題になる権力者が大国を振り回しています。この、全くSF的な状況ともいえる状況を寓話的にとらえて書けば、一編の傑作が生まれるのかもしれません。しかし一人のジョイスを生むのにアイルランド併合から約300年、ボルヘス、マルケスを生むのにスペインの南米支配から400年とか450年かかっているわけで、現在の韓国文学の世界での受容のされ方を見ると、後世にそのような作品が生み出される余地はあるのではないかと思うのです。
すんみ:非常に興味深く聞かせていただきました。韓国の作家がどういう背景の中で作品を書き続けてきたのか、どのような環境が作品にどういう影響を与えてきたのか、どういう魅力があるのか。頭の中で、斎藤さんが見ていらっしゃる韓国文学の地図が描けるような気がしました。ありがとうございました。