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イランの国内事情とフェミニズムを目撃する デゼラブル『傷ついた世界の歩き方』

記事:白水社

イランの国内事情をリアルに描く! フランソワ=アンリ・デゼラブル著『傷ついた世界の歩き方──イラン縦断記』(森晶羽訳、白水社刊)は、傷ついた世界を生きる者のため「世界の傷口」に命がけでペンを差し入れる旅行記。フェミニズムを目撃する新しい紀行文学。アカデミー・フランセーズ賞受賞作家の日本デビュー作。
イランの国内事情をリアルに描く! フランソワ=アンリ・デゼラブル著『傷ついた世界の歩き方──イラン縦断記』(森晶羽訳、白水社刊)は、傷ついた世界を生きる者のため「世界の傷口」に命がけでペンを差し入れる旅行記。フェミニズムを目撃する新しい紀行文学。アカデミー・フランセーズ賞受賞作家の日本デビュー作。

フランソワ=アンリ・デゼラブルさん[François-Henri Désérable,1987年生まれ] アイスホッケーのプロ選手という異色のキャリアをもつ、フランスの作家。ポール・ヴェルレーヌの詩句をもとにした恋愛小説『僕の支配者で僕の征服者』(2021)でアカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞。
フランソワ=アンリ・デゼラブルさん[François-Henri Désérable,1987年生まれ] アイスホッケーのプロ選手という異色のキャリアをもつ、フランスの作家。ポール・ヴェルレーヌの詩句をもとにした恋愛小説『僕の支配者で僕の征服者』(2021)でアカデミー・フランセーズ小説大賞を受賞。

 

エスファハーンへの道

 

 اصفهان──カーシャーンで見つけた段ボール紙に、黒色の油性ペンを使ってペルシア語でエスファハーンと記した。フランスではヒッチハイクは過去のものだ。今日では、ドライバーとヒッチハイカーを引き合わせ、待ち合わせの日時と場所を決めてくれる有料のアプリケーションやインターネット・サイトがある。あとはガソリン代などを折半する。セックス、恋愛、ホテルやレストランの選択なども、偶然ではなくアルゴリズムの出番になった。世間はこれを進歩と呼ぶ。ITの進歩により、偶然性は片隅に追いやられた。

『傷ついた世界の歩き方──イラン縦断記』(森晶羽訳、白水社刊、2024年)の装画:IRANIAN WOMEN 1 © Touraj Saberivand
『傷ついた世界の歩き方──イラン縦断記』(森晶羽訳、白水社刊、2024年)の装画:IRANIAN WOMEN 1 © Touraj Saberivand

 ペルシア語にヒッチハイクという言葉はなく、イランにはヒッチハイクという習慣は存在しない。イランでは、親指を突き出すのは淫らな仕草だ。車を止めて乗せてもらうには手を振って合図すればよい。イラン人はおもてなし精神に溢れ、外国人に興味を抱いている。イランでのヒッチハイクは容易だった。段ボールに記した文字を逆さまに掲げていたが、すぐに1台の車が止まってくれた。

 生物学の元教師であるヤースィーンは、どこから見ても生物学の元教師といった風貌だった。小さな長方形の眼鏡、禿げ頭、胡麻塩の鬚。弓型の眉の下に垂れ下がった瞼を加えると、イラン版サルマン・ラシュディ〔ホメイニから死刑宣告を受けた『悪魔の詩』の著者〕のできあがりだ。ただし、ヤースィーンは敬虔なイスラム教徒だった。車のバックミラーにはアーヤットーラー・ハメネイのペンダントがぶら下がっていた。

ゴムのムッラー[フランソワ=アンリ・デゼラブル著『傷ついた世界の歩き方──イラン縦断記』(白水社)P. 53より]
ゴムのムッラー[フランソワ=アンリ・デゼラブル著『傷ついた世界の歩き方──イラン縦断記』(白水社)P. 53より]

 「アーヤットーラー・ハメネイは偉大な人物だ。ハメネイの命が一分でも伸びるのなら、自分の命を捧げてもよい」とヤースィーンは唐突に語った。

 イランに到着してから、体制の支持者と接するのはこれが初めてだった。昆虫学者がアロッティトリバネアゲハやアオタテハモドキなどの珍しい蝶を珍重するように、僕はヤースィーンという絶滅危惧種を注意深く観察した。彼の考えは次の通りだった。イランはイスラム共和国になって偉大な国になった。国王は外国勢力に国を売り渡した売国奴だった。だが、革命によって新生イランは復活した。ウランを濃縮するだけで世界は震撼した。ムッラーたちが核武装するのではないかと慌てふためく西側諸国の連中の姿を見ると、胸がすっとする。しかしながら、生物学の教師によると、イランは外国と戦争がしたいのではないという。

 「われわれイラン人は、どの国の人々も好きだ」

 「アメリカ人もですか」

 「もちろん。彼らに恨みはない。悪いのはアメリカ政府だ。われわれイラン人はすべての国の人々を愛している」

 「イスラエル人もですか」

 瞬間、ヤースィーンは息を詰まらせた。

 「イスラエルは国ではない! あれは不法占拠だ。ユダヤ人に恨みはまったくないが、なぜ彼らはパレスチナ人の土地を奪ったのか」

 運転中のヤースィーンはハンドルを叩くと、ハンドルから手を放し、両手を天に上げた。すると車は道路からはみ出しそうになった。僕は助手席からハンドルに手をかけて、車を道路の中央に戻した。

イラン縦断マップ[フランソワ=アンリ・デゼラブル著『傷ついた世界の歩き方──イラン縦断記』(白水社)P. 9より]
イラン縦断マップ[フランソワ=アンリ・デゼラブル著『傷ついた世界の歩き方──イラン縦断記』(白水社)P. 9より]

 ヤースィーンには、16歳から20歳の3人の娘がいるという。3人とも敬虔なイスラム教徒であり、ラマダン中は断食し、毎日祈りを捧げ、金曜日には父親とともにモスクの礼拝に参列するが、チャドルは着用しないという。娘たちには、「チャドルには男性の絶え間ない欲望から女性を守り、父親、夫、兄弟、息子のために女性の美しい姿を保つ効果がある」と口を酸っぱくして説いたそうだが、娘たちは聞く耳を持たず、ヘジャブを着用するだけだという。ヤースィーンは「もう大人なのだから、好きにすればよい」とあきらめ顔で微笑んだ。ヤースィーンの態度は、フランス人の父親が学生のパーティーから酔っぱらって帰ってきた息子の姿を見て「近頃の若者は……」とぼやく姿と似ていた。

 ドライブの途中でヤースィーンの携帯電話が鳴った。イランで人気のアプリ「そよ風」(バーデ・サバー)だった。ミナレットが常に近くにあるとは限らない。そこで、このアプリによって時間や方角などの祈禱に関する正確な情報を得るのだ。ヤースィーンは「ちょっと失礼」と断り、車を路肩に停め、トランクから絨毯を取り出した。そして、南西の方向にあるメッカに向けて絨毯を敷いた。ヤースィーンはポケットから浮き彫りの入った粘土片(モフル)を取り出した。これはシーア派のイスラム教徒が持ち歩く祈りの道具だ。彼らは跪拝するたびに自身の額をこの粘土片に押しつける。わが運転手も語尾を引き延ばして「アッラーー」と唱えながら、跪拝を何度か繰り返した。再び出発すると、僕は眠りに落ちた。こうしてエスファハーンに到着した。

エスファハーンの地下鉄の出口 未来のイランから数歩遅れた過去のイラン[フランソワ=アンリ・デゼラブル著『傷ついた世界の歩き方──イラン縦断記』(白水社)P. 73より]
エスファハーンの地下鉄の出口 未来のイランから数歩遅れた過去のイラン[フランソワ=アンリ・デゼラブル著『傷ついた世界の歩き方──イラン縦断記』(白水社)P. 73より]

 他のイランの都市と同様、エスファハーンの街の入口にも、戦死者たちの肖像画が飾られていた。8年間にわたるイラン・イラク戦争では、大勢の若者が犠牲になった。この殉教者崇拝は、661年にハワーリジュ派によって暗殺されたシーア派初代イマームであるアリーにまで遡る。今日でもイランのシーア派は、アリーの息子で預言者ムハンマドの孫であるフセインがおよそ1400年も前にウマイヤ朝によって斬首されたカルバラーの戦いに憤怒している。イラン・イラク戦争以降、イランの街頭や校庭などには、殉教者の旗、フレスコ画、ポスター、横断幕があり、その周囲には、バラの花束、カラシニコフ〔自動小銃〕、弾丸が貫いた跡のあるコーランが置かれ、殉教者たちは崇め立てられてきた。 

 将来、これらの殉教者たちの肖像画は、マフサ・アミニ、ハディース・ナジャフィー、ニカ・シャカラミなど、反体制デモに参加して殺害された若者たちの肖像画に取って代わられるのかもしれない。その日が訪れたのなら、ヤースィーンは卒倒して車のハンドルから完全に手を放すに違いない。

  

【シェルヴィーン・ハジプールの《バラーイェ》 「なぜイラン人は抗議しているのか」という問いに無数の回答が「barāye(……のために)」という前置詞の書き出しで寄せられ、その一部を歌で綴ったのが運動のアンセムとなり、グラミー賞を受賞。最後は痛切な「女性、命、自由」の叫びで締めくくられる】

 

 ヤースィーンは、国民を抑圧する体制と既存の秩序を熱心に支持し、信心に凝り固まったところもあるが、笑顔を絶やさず、親切で気配り上手であり、よき父親であり、よき夫でもあるのだろう。道端に捨てられたペットボトルを拾うために車を止める良識ある市民でもあった。エスファハーンへの道中、「絶対に訪れるべき」と言って、山奥にあるアーブヤーネ村に寄り道してくれた。単調な景色が続いて眠くなると、音楽の音量を下げてくれた。僕の宿の前まで送っていくと言い張った。お世話になったお礼にお金を渡そうとすると、3回受け取りを拒否した。この世は、白黒はっきりするほど単純ではないのだ。

 

【フランソワ=アンリ・デゼラブル『傷ついた世界の歩き方──イラン縦断記』より】

 

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