〖対談〗鹿島茂・倉方健作 雑誌『ふらんす』創刊100周年に寄せて
記事:白水社
記事:白水社
鹿島茂:1925年に白水社から雑誌『ふらんす』が創刊されて、この1月で100周年ということです。『ふらんす』創刊に至る時代の状況あるいは寄稿者たち、また当時のフランス文学者、フランス語学習者について振り返ってみたいと思います。
まず、1925年といえば、大正14年、昭和が始まる前の年に当たります。日本史で重要なのは普通選挙法と治安維持法の成立です。この二つは歴史書ではつねにセットで論じられます。普通選挙法によって男性普通選挙への道が開かれ、表面的には民主化が進むかのように思われましたが、同時に治安維持法が成立し、国家は反体制思想の抑圧手段を手に入れました。つまり、一方で大衆の政治参加拡大が進むなか、他方で思想統制網が張り巡らされるという矛盾した状況が生まれたのです。また、一般大衆がとくに都市部において非常に大きな力を持ってくると同時に、マスコミの影響力も増してくる。
この頃とくに重要な出来事として、1923年9月1日に起きた関東大震災があります。東京の大手の出版社や新聞社が打撃を受けたのと代わるように大阪の毎日新聞と大阪朝日新聞が東京に進出します。摂政宮(後の昭和天皇)狙撃事件の責任をとって退職していた警察官僚の正力松太郎が読売新聞の社長に就任し、経営再建にあたります。こうして、三大新聞が首都に揃ったわけです。
倉方さんが作成してくださった年譜にもあるように、超大衆誌『キング』が創刊されたのもこの年ですね。大日本雄弁会講談社(現在の講談社)から発刊され、創刊号は50万部を売り上げたといいます。この雑誌の宣伝合戦は物すごかったということが、必ず風俗史には出ていますね。
倉方健作:この時期、文芸同人誌や学生主導の小規模な文芸雑誌も相次いで生まれて、たとえば梶井基次郎ら三高[旧制第三高等学校]出身の東京帝国大学の学生が創刊した『青空』のような、高度な文学意識を持つ若者たちによる独自の発信もありました。こうした同人誌の動きとも呼応して、分野に特化した知的媒体が成立する下地は整っていたといえます。
鹿島:つまり1925年の日本では、マス・メディアに対抗する反動的ニーズが生じたんですね。大衆誌が氾濫する中で、一部で非常に細分化されたインテリたちがそれぞれの狭い分野でたいへん質の高いものを出し、これが昭和にかけて大いに花開いていく。1920年代は日本の知識人も留学や文献探索を通じてフランス思想に触れていきます。フランスからの帰国者がパリでの経験を国内で共有したい欲求も高まり、専門的な情報発信媒体が求められました。
こうした状況において『ふらんす』の前身『ラ・スムーズ』(La Semeuse「種蒔く女」)という雑誌が創刊されたわけです。文芸同人誌の流行と外国文学の影響という二つの潮流が混じり合ったところにこの雑誌の創刊があり、影響は思いのほかに大きかったと言えますね。
倉方:創刊当時の編集主幹、つまり初代編集長は杉田義雄です。100年前にフランスに特化した雑誌を作るからには、若いエナジーがあるにちがいないと想像しがちなんですけど、実際にはかなりのおじいさんなんです(笑)。杉田は1865年生まれなので慶応元年、つまり江戸時代に生まれていて漱石より年上、創刊時には還暦目前です。フランス語の達人として知られ、日本を訪れたフランスの画家フィリックス・レガメの『日本素描紀行』の中でも称賛される通訳でもありました。
ですが、編集長は卓越した語学者であっても、『ラ・スムーズ』は単なる語学雑誌にとどまらなかったということが重要だったのではないかと思います。フランス文化を総合的に扱う専門誌が創刊されれば、語学・文学だけでなく、歴史、思想、社会科学、芸術、哲学など幅広いテーマを扱う拠点として機能することを意味します。
実は、白水社は1917年(大正6年)、『ラ・スムーズ』の前に『婦人』という総合文化誌を創刊していたことが、社史『白水社百年のあゆみ』にも書かれています。これは私も1号だけ持っているのですが、表紙にはフランス語でLa Femme(女性)と印刷された、洒落た冊子です。その前年には『婦人公論』(中央公論社、現・中央公論新社)が誕生していて、『主婦之友』(東京家政研究会、現・主婦の友社)と同年の創刊ですが、やや内容が高踏的だったせいか、『婦人』はわずか5号で廃刊になってしまいます。とはいえ、この総合文化誌の経験はおそらく『ラ・スムーズ』に生かされて、そのおかげで体裁も構成も、当時の雑誌のなかでも瀟酒なものになっているように思います。
また主幹の杉田はカトリックだったので、そのカトリック的人脈というのも無視できません。当時の駐日フランス大使のカトリック作家ポール・クローデルから創刊号に祝辞が寄せられていることに関係があったのかはわかりませんが、創刊当初の執筆者やその描きぶりにカトリック人脈が影響していると考えられます。ただ、杉田は創刊3年目の1927年11月には亡くなっているので、雑誌のスタート時の立役者ということですね。
鹿島:なるほどカトリック人脈というのは面白いですね。わたしも『神田神保町書肆街考』(ちくま文庫)の「フレンチ・クォーター」という章で、神田カトリック教会と繋がりの深い三才社というフランス書専門店がいまのさくら通りにできて、フランス文化の拠点になったということを書いています。最初はカトリック系の本が多かったのに、昭和8年からは野田書店という山内義雄の弟子の早稲田仏文出の人が出した「ヴァリエテ」という雑誌の発行所になって、現代フランス文学の輸入も行うようになりました。
倉方:当時のフランス語界隈では、もちろん神保町からほど近い、九段下の暁星学園[フランスのカトリック男子修道会「マリア会」によって1888年創立。充実したフランス語教育で知られる]の存在も大きいです。当時は、マリア会の神父エミール・エックが長らく東大の仏文で講師を務めていました。東大の仏文の最初期の卒業生は、みなこのエック師に習っています。
鹿島:白水社は1915年創業以来、欧州文学、とくにフランス文学紹介に力を注いできた新興出版社でした。創業者は福岡易之助ですね? どんな人物かくわしく教えていただけますか?
倉方:創業者の福岡易之助は、秋田の豪農出身で、東大仏文の卒業生です。高校、大学では『星の王子さま』の訳者として知られる内藤濯の同級生でした。高校では辰野隆の1年先輩、大学の仏文科では6年先輩に当たります。大学卒業後に白水社を起こした当初は、義兄(姉の夫)の政治家・田子一民の影響もあって、農村問題に関する書籍を刊行していました。1920年代に入るとフランス語関係の書目が少しずつ増えて、1921年には『模範仏和大辞典』を刊行しています。これはエックの東京帝国大学在職25周年を記念して、内藤濯、折竹錫、福岡ら、その教え子たちによって編纂されたもので、社を挙げた大事業です。
鹿島:これは日本初の本格的な仏和辞典、ひじょうに画期的なものですね。実は原稿の多くを岸田國士が執筆していて、その原稿料を前借りしてフランスに遊学することができたという有名な話があります。
倉方:内藤によればF、Gの項目は岸田が書いたそうです。『模範仏和大辞典』は、当時フランス文学を熱心に受容していた日本の作家たちの文学理解や、語彙の選択にも多大な影響を及ぼしているはずです。宇佐美斉先生(京都大学名誉教授)は、中原中也の訳詩に辞典からそのまま借りた語彙があることを指摘しています。『模範仏和大辞典』を電子化して、作家たちの語彙と詳細な比較検討ができれば、面白い研究になりそうです。
年譜にもあげましたが、1922年には辰野隆のフランス文学評論集『信天翁の眼玉』と、辰野と鈴木信太郎の共訳によるエドモン・ロスタン『シラノ・ド・ベルヂュラック』が、どちらも白水社から刊行されています。その翌年に関東大震災があって、1924年は1冊も刊行ができないほど経済的苦境に陥るなかで、1925年にフランス方面に舵を切った『ラ・スムーズ』を創刊する決断は、出版社としてのひとつの賭けだったでしょう。編集主幹に据えた杉田は、社長の福岡の高校時代のフランス語の教師でもありました。東大仏文の人脈、先ほど述べたカトリックの人脈など、多様なネットワークを活用して、質の高い記事を提供できる『ラ・スムーズ』の体制が整えられたのだと思います。
【雑誌『ふらんす』2025年1月号「ふらんす100年!」より一部紹介:続きは本誌で!】