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西行が「007」ってホント⁉ 作家・嵐山光三郎と歴史家・磯田道史が「異端の日本史」を語り尽くす!

記事:平凡社

嵐山光三郎さん(左)と磯田道史さん(右) 写真=川島保彦
嵐山光三郎さん(左)と磯田道史さん(右) 写真=川島保彦

2025年5月15日刊、平凡社新書『影の日本史にせまる――西行から芭蕉へ』(嵐山光三郎、磯田道史著)
2025年5月15日刊、平凡社新書『影の日本史にせまる――西行から芭蕉へ』(嵐山光三郎、磯田道史著)

奥州行きは諜報活動!?

嵐山光三郎:西行は生涯に二度、奥州に行っていますが、最初に行ったのは待賢門院が亡くなる前後で、26~30歳ぐらいでしょう。奥州では藤原氏が勢力を張っていて、12世紀、平安時代の最後の100年です。京では白河・鳥羽・後白河の三代の上皇が政治の実権を握っていた時代につながる。清衡きよひら基衡もとひら秀衡ひでひらの藤原三代と年代が重なりあう。時代の大きな転換期で、摂関政治から武士へと変わっていく。天皇家も、摂関家も、非常に気がかりな存在だった。清衡が平泉に京都みたいな中尊寺を造り、金堂、三重塔など寺塔40余、坊は500棟で、それぞれ叡山延暦寺と同じ名をつけたんですね。これは、ほうっておけません。二代目の基衡も毛越寺もうつうじを建てて城塞化しはじめている。一番気にしたのは悪左府こと頼長で、「おい、ちょっと調べてこい」ということになった。奥州藤原氏は白河までをおさえているし、富を持っているし、天皇家としても気になる第三勢力です。西行は、出家した諜報官007ですからね、「歌枕」を求める旅をして奥州調査に行ったと思う。

奥州藤原氏(上・清衡1056-1128、右下・基衡?-?、左下・秀衡?-1187) 平安時代後期より奥州の豪族として台頭、平泉に中尊寺、毛越寺を建立し隆盛を極めた。
奥州藤原氏(上・清衡1056-1128、右下・基衡?-?、左下・秀衡?-1187) 平安時代後期より奥州の豪族として台頭、平泉に中尊寺、毛越寺を建立し隆盛を極めた。

磯田道史:単なる歌枕旅行でないというのは、鋭い指摘かもしれない。

嵐山:命がけの旅ですから、摂関家の頼長が金を出しているかもしれない。諜報目的だったと思うんです。三代目の秀衡にいたっては、めきめき力をつけ、地方武士団ができているわけです。清衡は金堂を建てた時に扁額へんがく揮毫きごうを関白忠通に頼んできたんですが、忠通と頼長は(兄弟)仲が悪い。両方とも情報不足ですね。西行はもともと俵藤太つまり藤原秀郷の九代目で奥州はふるさとでもあるから、命がけで行ってきた。

磯田:ああ、なるほど。

嵐山:藤原氏の何がすごいかといえば、やはりきんですね、それと馬。

磯田:ぼくは西行は馬には、よほどの興味をもっていたと考えます。もと北面の武士でしたし、競馬くらべうまも得意でした。前近代社会で、馬というのは自動車産業に近い。しかも高級自動車です。ものすごい富をもたらします。戦車という軍事力でもある。だから奥州では歌枕と同時に、馬の様子を見たかったのかもしれません。産馬の地ですからね、馬を産出する実態を見て人づてをつければ、いい馬だって輸入できる。誰かから頼まれたかもしれない。

嵐山:それは欲しいですね。

磯田:静岡も馬の産地というのか、伊那谷から来た馬が東海道に出てくる所です。

嵐山:天竜川流域の曳馬ひきうま伝説ですね。浜松出身の賀茂かもの真淵まぶちが研究していた。

磯田:ええ、伊那から来て静岡の浜に出ていくから「浜馬津」で、「はまうまつ」がだんだん変化して「浜松」になった(笑)。馬がいる港、だから浜松はスズキ自動車が来る前から乗物の街なんです。

嵐山:あ、そうか。

磯田:そういえば、2012年に榛名山の噴火でなくなった古墳時代の王族らしき四人の人骨が見つかったんです。この人たちがどこから来たか、骨の分析で伊那谷あたりの出身と推定された。古墳時代、榛名山麓に王が館を建てるとすると馬産以外は考えられません。群馬県に住んでいながら王族も妻も伊那谷下流出身でした。彼らが馬を生産するために北関東に移り住んで馬を育てていたことが想像できます。

嵐山:東北は馬も最高ですけど、やっぱりきんね。あれだけ金がとれて、立派な金堂を造って、しかも東北の武士は強い。これほど武士が台頭してくると、京の朝廷としては「ちょっと調べてこい」となる。そういう要請がなければ、なかなか白河は越えられません。

 西行の奥州行脚あんぎゃの足跡は、芭蕉が「おくのほそ道」でつぶさに辿っています。「ほそ道」では白河を境にその先は伊達だて氏の領内で殺されてもしょうがない、そういう境界になるわけです。藤原三代のころは金売吉次かねうりきちじ──奥州で産出される金を京で商うことを生業なりわいとしたとされる──という諜報員を散らせて京のようすも探っていた。それでいながら、金堂の扁額を関白忠通に頼むほどの智恵もある。

旅と西行と能

磯田:西行は経済的な中心地はわりと見に行ってますね。主要道をちゃんと辿ってます。

嵐山:西行は日本全国のあちこちへ旅をしていたイメージがありますが、奥州に二回、北陸方面と四国に一回、あとは高野山と京都を行ったり来たりしているぐらいです。高野山の特別待遇勧進僧として君臨していた。讃岐に行ったのは崇徳院の鎮魂、厳島は清盛との関係がありましたからね。

磯田:厳島へは船に乗ればすぐです。

嵐山:生涯の30年余りを真言宗の聖地、高野山で過ごしています。高野山にあっても常に都とのつながりをもち続け、権力者たちの動向を見守っていました。北面の武士の同僚であった清盛は、相次ぐ戦乱を勝ち進んで全盛期を迎えていきますが、時代の覇者として君臨する清盛とは深く結びついていきます。高野山には、西行が高野山に宛てた直筆の手紙、高野山円位えんい書状(円位は西行の法名)が残されていて、これによれば、清盛に、高野山に課せられた税の免除を依頼しているんですね。フィクサーですよ。清盛がこの申し出を承諾したので、高野山一山を挙げて陀羅尼だらにを唱え、清盛への免税の礼を尽くすようにと要求している。真言宗の総本山を動かすほどの大きな力をもっていた。西行は世間が思ってるほど、そんなには旅していないんですよ。

円位書状 1174年、高野山に課せられていた神社造営料が清盛の口利きで免除されることを高野山に報せた、西行の真筆とされる書状。清盛に感謝するよう促してもいる。国宝。
円位書状 1174年、高野山に課せられていた神社造営料が清盛の口利きで免除されることを高野山に報せた、西行の真筆とされる書状。清盛に感謝するよう促してもいる。国宝。

磯田:当時としてはすごいことですがね。最初の奥州行きのときは確か、駿河の久能山くのうさんの山寺で月を見てまた泣いています(笑)。

涙のみかきくらさるゝ旅なれや
  さやかに見よと月は澄めども

 西行の旅は涙の旅です。月は澄んでいるのに、涙でぐじょぐじょでゆがんだり濁ったりして見えてしまう。泣きながら奥州へと向かう。

嵐山:久能山の歌は一回めの奥州旅行です。一回めの旅は、能因のういんが詠んだ白河の関や武隈たけくまの松といった歌枕を回っています。二度めの奥州行は清盛が死んでから5年後です。

年たけて又越ゆべしと(おもい)きや
  命(なり)けり佐夜(さや)の中山

 は自讃歌、自分が気に入った二首の歌のうちの一つなんです。小夜(佐夜)の中山(静岡県南部の掛川市、日坂にっさか峠と金谷町の間にある東海道の坂路)は、ぼくの生家が近くて、今でも歩いて登れるんですよ。

磯田:山賊が出たり、赤子が泣いたり、不思議な坂なんですね。

嵐山:日坂から中山峠をへて菊川の里にまで出る道は旧東海道ハイキングコースになっています。中山峠に至るまでは夜泣松よなきまつ神社、斬捨御免きりすてごめん千人斬せんにんぎづか夜泣石よなきいし、といった薄気味の悪い名所がありまして、いま歩いても淋しい山道です。峠の上には久延寺きゅうえんじがあって境内に茶亭があり、関ヶ原へむかう家康をもてなしたことで知られています。夜泣石を世にひろめたのは曲亭きょくてい馬琴ばきんで、明治初年の東京博覧会に出品されました。西行よりずっとあとの話ですが、西行の歌が念頭にあって、いろいろの説話がつくられたのだと思います。

磯田:それに西行の歌は能に親和性が高いですね、『江口』でしたか。

嵐山:はい。天王寺にお参りして江口で一夜の宿を断られたときの歌で、

世の中をいとふまでこそかたからめ
  仮かりの宿やどりを惜しむ君(かな)

 自分はこの世を「仮の世」と思って出家した身分なのに、「一夜の仮の宿」をあなたはなぜ惜しむのですか、そう文句を言うと、遊女の返しとして、

家を出づる人とし聞けばかりの宿に
  心とむなと思ふばかりぞ

 「出家をされた方が、こんな仮の宿に泊まりたいと執着なさいますな」と。『山家集』でこの二首は並んでいます。能では、最後は、江口の亡霊が普賢菩薩となって西の空へ消える。世阿弥がつくった崇高で華麗な幽玄能ですね。
 もう一つ、最初の奥州への旅で詠んだのが

道のべに清水流るゝ柳陰やなぎかげ
  しばしとてこそ立ちとまりつれ

 『西行法師歌集』に入っていて、これも能になっています。芭蕉もここで「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」という句をつくっていて、この柳は今でも田んぼのなかに植わっているんです。そばに小さな神社があって川が流れていて、日本の文芸は奥が深いですね。西行が旅の途中、川のなかに柳の影が流れていたので、しばらくそこに立ち止まって眺めていた、という歌です。これが謡曲『遊行柳ゆぎょうやなぎ』になると、のち鎌倉時代の一遍こと遊行上人が西行のこの歌を訪ねてやってくる。だけど柳のあるところがわからない。すると柳の精霊が出てきて、その場所を教える。よく知られる能ですが、退屈な舞台でしてね(笑)。能楽堂で観たときは、舌を嚙んで起きているのが大変でした。柳の精霊が現れて「ここだ」と教えてくれて、やがて柳が立ち去っておしまい。それがえんえんとつづくから眠くて眠くて。

磯田:『遊行柳』は、そういう話ですか。

嵐山:田んぼのなかに柳の木が一本植えてあって、それを見に行くんですからね。ぽつんと一本立っているだけの柳が名所なんですよ。歌舞伎は大衆の芸として続いてきたけれど、能楽は江戸時代に芸能として保護されたから、密室の芸になってしまった。国によって保護されるとアートになって、洗練されて、本来のパワーがなくなってしまう感じで。京都の四条河原で世阿弥が演じたときは皆が外で見ていたでしょう。

磯田:2017年に、ぼくが改作した狂言『歌仙』が国立能楽堂で上演されたんです。野村万蔵の長男の虎之介さん改メ六世野村万之丞の襲名披露公演で、最後の演目でした。万蔵さんに頼まれて、書きました。原典の狂言『歌仙』は、衣装はきれいで華やかだけれど、『大和物語』を全巻記憶して歌がわかっているような教養人でないと笑えない狂言でした。実際、野村萬斎は自分で20分間も解説してからっていました。それを解説なしで、当時の言葉で笑えるように、改作してもらえないか、と頼まれた。客席はけっこう笑ってくれましたが、台詞はともかく、お囃子はやしの部分は変えられない。やってみて思ったのは、能楽は武家政権に保護されてきた芸能だから、みる人に受けるかどうかとは関係ないところではぐくまれてきた芸術の面がある、ということです。

嵐山:今は、若手の狂言師が活躍して活気づいていますね。

磯田:改革しようと万蔵さんもいろいろ試みて頑張っておられます。

嵐山:「わっはっはっは」と狂言特有の笑い方を客に練習させたり、解説をつけて薪能とセットでやる。薪能たきぎのうブームで増上寺、平安神宮、大阪西の丸庭園、中尊寺、小田原城、厳島観月能など、あちこちの社寺や公園でやっています。昔のかたちに戻って野外でやったときの状態にすると、身ぶるいするほどいいですよ。『遊行柳』も東北の寺の境内とか、柳が生えている公園でやればすごくおもしろいと思うんだけど。

『影の日本史にせまる――西行から芭蕉へ』目次

まえがき 磯田道史
その一 西行とその時代
その二 連歌の流行と俳諧の誕生
その三 芭蕉とその時代
あとがき 嵐山光三郎
新書版あとがき──西行から芭蕉の迷路へ 嵐山光三郎
歌句索引

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