大ヒット映画「トワイライト・ウォリアーズ」ファン必携の香港ガイド 『香港と日本』より
記事:筑摩書房

記事:筑摩書房
日本に来て自己紹介をするたびに一番悩むのが母語の話だ。香港人の九〇パーセント以上は華人であり、その母語は広東語である。日本人の知り合いは、中国と香港の関係を考えた上で、「じゃあ広東語は関西弁のようなもの?」と聞いてきた。昔の日本語学校のベトナム人の友達も、「チンさんの母語は香港弁」とたびたび言っていた。しかし私の戸惑う顔を見て、また私の長い「香港論」(「香港はこうだ」「香港人はこうだ」のような呟き)をたまに聞いて、いつのまにか「チンさんの香港語」と彼らは言い直した。
香港の広東語を「香港語」と呼ぶのは、台湾の閩南語を「台湾語」と呼ぶことと同様に、地域の主体性を明らかにできるので、私はいいと思う。しかしこの問題は、論証するならば一本の論文や一冊の本にもなるものなので、ここでは普通に「香港の広東語」(以下、広東語)と呼ぶことにする。
第1章で言及したが、香港にとって広東語は方言ではない。確実に言えば、方言のような未標準化のところもあるが、実際の応用によって威信と規範を得ており、公用語と定義すべき言語である。未標準化とは、たとえば政府が作るまたは直接に指定する広東語の辞書がないとか、広東語の個別の字の発音が公的・統一的に規範化されていないとか、広東語を文章として書く際、文法と字の公的・統一的な規範がない、ということである。
しかし、広東語は事実上の標準化を達成している。香港では、政府、立法機関、司法機関、大学、マスメディア、庶民生活で話される公用語である「中国語」は広東語である。書く際に広東語の独特な語彙や助詞や終助詞を除いたら、話し言葉としての広東語と書き言葉としての「中文」はほぼ一致する。以下の行政長官・梁振英(在任二〇一二~一七年)の旧暦新年の賀辞から見ていこう。太字は話し言葉と書き言葉が一致しない部分である。
[広東語の文体・話し言葉](放送用。太字の広東語部分は映像の音声をもとに引用者作成。なお以下、原文の「,」「;」は書籍編集時にタテ書きにするにあたり「、」「。」に変更した)
中国人特別重視農暦新年。香港係国際大都会、無論本地市民、亦或外地嚟嘅朋友、大家都好享受喺香港過年嘅節日気分。要保存香港中西薈萃嘅特色、我哋除咗要重視中国伝統節日、亦要努力伝承中国文化同芸術。今年係猴年、我同太太祝小朋友好似馬騮仔咁精霊。大朋友、「老友記」、不論年齢、不論国籍、都希望大家喺新嘅一年、心想事成、万事如意、身体健康! 恭喜発財、新年進歩!
[書き言葉](字幕・公文書用。太字は話し言葉から書き言葉に変換した部分)
中国人特別重視農暦新年。香港是国際大都会、無論本地市民、還是外地来的朋友、大家都很享受在香港過年的節日気分。要保存香港中西薈萃的特色、我們除了要重視中国伝統節日、亦要努力伝承中国文化和芸術。今年是猴年、我和太太祝小朋友好像小猴子般精霊。大朋友、「老友記」、不論年齢、不論国籍、都希望大家在新的一年、心想事成、万事如意、身体健康! 恭喜発財、新年進歩!
[日本語訳](引用者訳)
中国人は特に旧暦の新年を大事にします。香港は国際的な大都会であり、地元の市民と外国から来る友人とを問わず、皆で香港で新年を迎える祝日の雰囲気を楽しんでいます。中華と西洋が併存する香港の特色を守るため、私達は中国の伝統的祝日を大切にしたうえで、中国文化と芸術を頑張って継承すべきだと考えます。今年は申年であり、私と妻は子供達がサルのように元気であるように祈ります。大人もお年寄りも、年齢や国籍にかかわらず、皆さんが、新しい年に願いが叶うように、何事も希望通りにいくように、健康であることを祈っています! 金運に恵まれることを祈って、新年おめでとうございます!
太字の部分は、話し言葉と書き言葉が異なる箇所であるが、実はそれほど多くない。たとえば、日本語の「~は…です」という文型は、広東語の話し言葉では「~係…」(hai6、以下このような表記は発音と声調を表す)、現在の書き言葉としての中文では一般的に「~是…」(si6)になる。日本語の「~の…」という助詞は、話し言葉では「嘅」(ge3)、書き言葉では「的」(dik1)になる。また、特定の用語、たとえば「サル」という動物の話し言葉は「馬騮仔」であるが、書く時はだいたい「小猴子」とされる。これらの例では、語彙は異なるが、文法的語順は変わっていない。
この例文は、香港の公共放送で一般市民に伝えられる新年の挨拶である。言葉の選択は分かりやすく、文学的な修辞も庶民らしい語彙も使用されていない。ニュース番組、教育現場、立法機関の会議、政府の責任者の発言、地下鉄のアナウンスまで、口語としての広東語は実際のところ書き言葉としての中文と重なる部分が非常に多い。
次に、地下鉄のアナウンスの例を挙げよう。香港の地下鉄荃湾線に乗って、太子駅に着く直前に広東語のアナウンスが流れる。「下一站太子,乗客可以転乗観塘線,往調景嶺沿途各站。左辺嘅車門将会打開」。意味は「次は太子、観塘線はお乗り換えです。調景嶺方面の各駅に行くことができます。左側の扉が開きます」。そのアナウンスの中で、「嘅」だけが広東語の特別な語彙であり、他は全て中文と重なる。日本と同じく「ドアが閉まります、ご注意ください」というアナウンスは、香港でも流れる。広東語のアナウンスは「請勿靠近車門」であり、中文と広東語は全て一致している。
普段、中文を朗読する際は、広東語の発音に基づく。さらに、大学統一入試(日本のセンター試験に相当)には、「中国語文」という日本の国語に相当する必須科目があるが、その聴解と会話のテストは広東語で行われる。普通話で受ける選択肢もあるが、一般的な受験生はほぼ広東語にする。話し言葉としての広東語の常用の語彙や助詞は、必ずこの聴解と会話のテストにでてくる。会話のテストにはちょっと難しい漢字を広東語で正しく発音できるかどうかという採点のポイントもあり、これはまるで日本の漢字検定の読み方を問う問題みたいである。
香港の広東語はこのように使用されており、中文と同一視されている。政府ははっきり言わないが、香港の広東語は事実上標準語化されていると認めないといけないだろう。
はじめに
第Ⅰ部 「準都市国家」香港
第1章 香港とは何か ──「準都市国家」を旅する
第2章 香港の主体性 ──国籍・「中国」・日本
第3章 二〇一九年の香港 ──運動と分裂
第Ⅱ部 香港と「日本」
第4章 香港と日本アニメ ──表象・記憶・言説
第5章 日本イメージの変容とアイデンティティ
第6章 戦争の記憶と「中国民族意識」
第7章 戦争の忘却・想起・香港アイデンティティ
おわりに
注
主要参考文献