刊行から45年、いまは存在しないルートが載る登山ガイド『日本登山大系』はなぜ売れ続けているのか
記事:白水社
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『日本登山大系』の名前を聞いたのは、白水社編集部で海外ノンフィクション作品についてインタビューしているときだった。(参照:「埋もれている海外ノンフィクションの傑作」をよみがえらせたい…「現代史アーカイヴス」のジレンマと挑戦、「中国は疾走し続けている」…体当たりの取材で書かれた中国ノンフィクションが伝えるリアル )
デスクで仕事をしている編集部の人たちに、雑談がてら、
―― 白水社はもともとフランス語教材や翻訳文学が中心でしたよね。ノンフィクションに力を入れ始めたのは突然だったんでしょうか。
と話しかけると、編集部員X氏が振り返って答えてくれた。
「たしかに、うちはなんとなく文学の香りがする出版社ではあるんですけど、ノンフィクションをいきなり刊行し始めたわけではなく、そこに続く源流があった、と、僕は思うんですよね」
―― どんな源流ですか?
「探検ものです。大谷探検隊の『シルクロード探検』を含む「西域探検紀行選集」や、中央アジアのタリム盆地東端にある塩湖ロプ・ノールが移動するという説を唱えた探検家スウェン・ヘディンが1934年にその確認のため現地を訪れた探検記『さまよえる湖』……。そういう、埃っぽい砂漠の探検記を、白水社は伝統的に刊行しているんです。
うちのノンフィクションは、そうした探検ものの流れかな、と、僕はいつも思ってるんです。これは会社の見解ではなく、僕個人が勝手にそう思ってるだけですよ。
そして、その流れをくむ“水脈”として、僕が、現在のノンフィクションともっとも親和性を感じるのは、山の本なんです」
―― 山の本?
「登山記録とか、登山ガイドです。うちは、山の本をずっと長くつくってきてるんですよ」
――“山の白水社”という顔があったんですね。
「はい。山の本の源流はおそらく、ヨーロッパアルプスの登山記録の翻訳書です。白水社は、文学とも語学書とも違う別のジャンルとして、山の本を、ずっと長いこと細々とつくり続けてきました。だから、流れとしてはおそらく、そうした探検記や山の本が細い水脈としてあって、それがノンフィクションにつながっていったんじゃないかな、と、僕は理解しています。僕自身、この会社に入る前、白水社の本の中でも特に山関係と探検家の本は、ずっと好きで読んでました」
―― 山の本はいまも出しているんですか?
「はい。ものすごい本があるんですよ。1980年から刊行されて、いまも読み継がれている“お化け本”です。白水社の宝といっていいでしょう。ご覧になります?」
―― ぜひ!
X氏は席を立ってどこかに走って行くと、本の山を抱えて戻ってきた。
「『日本登山大系』全10巻です。全国の主な山岳のバリエーションルートを網羅しています。ここに持ってきたものは、復刊した普及版で、3回目の“おつとめ”です」
――“おつとめ”とは、復刊したということですか?
「そうです。1980年に初版、97年に新装版を出して、2015年にこの普及版を出しています。ずっと山登りを続けていらっしゃるベテラン・クライマーの方々の中で、これを読んで育った方は日本中にたくさんいらっしゃるはずです」
―― 1980年の初版はどういったきっかけで出したのでしょう。
「白水社に、山好きで有名な大先輩たちがいたんです。一人は営業部の方、もう一人はドイツ語や英米文学の本をずっと手がけ、編集部長を務めた方で、日本のフリークライミングの初期の頃にガンガン登って自分でルートを開拓していた方です。当時のクライミング好きの人なら誰でも知っている有名なクライマーだったそうですよ。うちの会社には、そういう山好きの伝統のようなものがあるんですよね」
――ということは、もしかしてXさんも登山をなさるんですか。
「はい。大好きです。だから、僕も山の本をつくっていきたいんですよね」
「日本ではこれまで何度か山ブームがありましたよね」
―― はい。「山ガール」という言葉が流行ったことも。
「大学の山岳部や社会人山岳会が活発だった頃は、おそらくこの本はすごく読まれていたと思うんです。でも、はたして現在も読まれているのか、僕は正直、疑問だったんです。だって、1980年の刊行ですよ。最新情報はネットにいくらでも載っているし、山岳書で名高い〈山と溪谷社〉さんの本をはじめ新しい登山ガイド本はいくらでも出ているわけです。そんな中で、何十年も前に出した本の読者がいるんだろうか、と。
でも、驚くべきことに、2015年に普及版を出したらじわじわと売れて、重版したんです。僕は個人的に『え? 重版?? うっそ!』と、すごく驚いてしまって。
現時点で全巻重版してまして、第7巻の『ヤリホ』は4刷までいきました」
―― 「ヤリホ」?
「槍ヶ岳・穂高岳です。人気の山域ですね」
第1巻 北海道・東北の山:
利尻山/北見・天塩山地/知床半島の山/大雪山連峰/十勝連峰/夕張山地/日高山脈/増毛山塊・樺戸山塊/札幌近郊/支笏・洞爺、ニセコ・羊蹄の山/積丹山塊/道南の山/北海道のゲレンデ/白神山地/岩手山・秋田駒連峰/和賀山塊/太平山/早池峰山/焼石岳/栗駒・虎毛・神室/鳥海山/船形連峰/大東岳/蔵王連峰/吾妻連峰・安達太良山/朝日連峰/飯豊連峰
第2巻 南会津・越後の山:
那須連峰/男鹿山塊/帝釈山脈/会津駒ヶ岳・朝日岳山群/平ヶ岳・景鶴山/荒沢岳/越後三山/巻機山/越後大源太山/上信越国境山群/毛猛連山/川内山塊/御神楽岳/浅草岳・鬼ヶ面山・守門岳
第3巻 谷川岳:
マチガ沢/一ノ倉沢/幽ノ沢/堅炭岩/湯檜曾川/谷川岳南面の沢/幕岩/阿能川岳の沢/小出俣川の沢/赤谷川/仙ノ倉沢/万太郎谷・茂倉谷/蓬沢檜又谷/足拍子岳・荒沢山/奥利根の沢/上州武尊山
第4巻 東京近郊の山:
富士山/愛鷹山/城山/丹沢/三ツ峠/大菩薩連嶺/奥多摩/奥武蔵/妙義山/足尾山塊/日光周辺/東京近郊のゲレンデ
第5巻 剣岳・黒部・立山:
源治郎尾根/八ツ峰/三ノ窓周辺/池ノ谷/小窓尾根白萩川/東大谷・毛勝谷/毛勝三山西面/立山/黒部川/黒薙川/丸山東壁/黒部別山/奥鐘山西壁
『日本登山大系[普及版]』(白水社)収録内容その1
――『日本登山大系』を読んでみると、登山家の方のエッセイと、地図のようなもの(ルート図、概念図)と文章だけで構成されていて、親しみやすさをねらうようなイラストやカラーページは一切なく、素朴で昭和の香りが漂う本ですね。どういう人が買ってるんでしょう。
「うーん……プラクティカルな実用書として使われているとは、ちょっと思えないんですよねぇ。こういうルート図って、いまはもっと詳しいのがいっぱい出ていて、この本が書かれた時代とは全然違う新しいルートがたくさん開拓されていますから。
なので、逆にもしかしたら、読まれている理由は、いまはないルートが載っていることです。かつては登られていたけど、いまはもう誰も振り返らないようなルートをマニアックに楽しむ方たちがいるのかもしれません。
どんなに詳しいルート図や登山ガイドにも、いまは絶対に載っていない“幻のルート”が、『日本登山大系』にはけっこう載っています。地元の人しか知らないようなルートも収められています。それは確かに魅力だなぁと思いますね」
第6巻 後立山・明星山・海谷・戸隠:
白馬三山/不帰東面・西面/五龍岳東面/鹿島槍ヶ岳/爺ヶ岳東面/赤沢岳・スバリ岳西面/明星山/海谷山塊/雨飾山/妙高山/火打山/鉾ヶ岳/権現岳/戸隠連峰
第7巻 槍ヶ岳・穂高岳:
錫杖岳/笠ヶ岳/奥又白谷・中又白谷/下又白谷/屛風岩/滝谷/涸沢・岳沢・ジャンダルム/明神岳/霞沢岳/槍ヶ岳/赤沢山/有明山/唐沢岳幕岩/高瀬川
第8巻 八ヶ岳・奥秩父・中央アルプス:
赤岳東壁・地獄谷/杣添川/広河原沢/立場川/赤岳西壁・阿弥陀岳北面/横岳西壁/稲子岳南壁・東壁・天狗岳東壁/北八ヶ岳/滝川/大洞川・大血川/笛吹川/入川/白泰山/金峰山/瑞牆山/金峰山川西股沢/両神山の沢/二子山/木曾の溪谷/伊那の溪谷/宝剣岳の岩場
第9巻 南アルプス:
甲斐駒ヶ岳・鋸岳・鳳凰三山/赤石沢/摩利支天峰/仙丈岳/白峰三山/北岳バットレス/白峰南嶺・安倍連山/塩見岳・荒川岳/赤石岳・聖岳/光岳と深南部の山/北遠・奥三河の山
第10巻 関西・中国・四国・九州の山:
御在所藤内壁/奥美濃/白山/京都北山/比良/南紀の谷/台高山脈/大峰山脈/七面山南壁/奥香落の岩場/六甲山/雪彦山/王子ヶ岳/大山/三倉岳/伯耆大山/石鎚山/赤石山系/剣山/小豆島拇岳/背振山地/犬ヶ岳/八面山/大崩山/行縢山/比叡山/祖母山・傾山/尾鈴山地/阿蘇山/市房山/脊梁山地/屋久島
『日本登山大系[普及版]』(白水社)収録内容その2
―― 2015年の普及版の復刊は、思いきった試みだったのですか?
「じつは、僕、社内で復刊の話が出たとき、知り合いの山岳ライターの方に紹介してもらって、ヤマケイさん(山と溪谷社)の有名な編集長の方に恐る恐る相談に行きました。『いま、『日本登山大系』10巻全巻を復刊しようと思ってるんですけど、どう思います?』って。そうしたら、『あぁ、もう応援します! あれはすごい本なので。うちには絶対つくれないから、ぜひ残してほしい』って言われて。それで、『よし! ヤマケイさんがそう言うんなら、じゃあやろう!』と、復刊を決めました(笑)。
3人の編者の方々――柏瀨祐之さん、岩崎元郎さん、小泉弘さん、みなさん山の世界ではとても有名な方々で、幸いお三方とも元気でいらっしゃいます。その復刊の話をしたときは、みなさん本当にびっくり仰天していらっしゃいました。『えー? またやるのー!?』って(笑)。
―― どういう方々なんですか?
「柏瀬さんは、いまも現役のベテラン登山家で、ヤマケイさんの雑誌で単独でインタビューされるくらい有名な方です。岩崎さんは、〈無名山塾〉という一時期大変流行った登山教室を設立なさった方で、日本の山ブームのさきがけの人です。小泉さんは、山岳書の世界では知らない人はいない大装幀家です」
――『日本登山大系』を登山初心者が読む場合は、登りたい山を決めてから、全10巻の中から該当する巻を手に取ればよいのでしょうか。ただ、初心者には山の選び方すらわからないかもしれません。
「そういう方には、編集部がつくった『日本登山大系』のガイド本、『昭和登山への道案内 ベストセラー「日本登山大系」を旅する』をおすすめします。この本は、『日本登山大系』全10巻の巻頭部分と一部ルートをまとめたもので、日本中の主要な山岳を概観できます」
―― 『昭和登山への道案内』の冒頭に、編者の方々が『日本登山大系』をつくることがいかに幸せな仕事だったかを書いた文章が収められています。ここを読むだけでも、登山の楽しさが活き活きと伝わってきますね。……ところで、Xさんにとって、登山のよさ、って何ですか?
「山登りにもいろんなスタイルがあるので、ひとことで言うのは難しいですけど……。僕が一番いいなと思うのは、計画段階から、山を登って、下りて、じゃあ次はどこを登ろうかなって考える、その全部が自分の頭の中と身体だけで完結できることです。もちろん計画どおりにいかないことはいっぱいあるんですけど、じゃあそこでどうしよう、って、それもやっぱり自分で考えて、自分の身体で責任を持つわけです。その気持ちよさというか、自由さでしょうか。
でも、じつは、自由ではないんですよね。壮大な自然のルールの中で、ちょこちょことやってるだけですから。でも、都会の喧騒から離れて、見渡す限り誰もいないようなところで『あぁ! 一人でいるなぁ! 生きてるなぁ!』という実感を味わえるところが、一番、いいですかねぇ。だから、僕は人がいない冬の山が好きです」
――ベテランの方も、初心者の方も、安全には十分気をつけて、『日本登山大系』の編者の方々やXさんのように、その人なりの登山の幸せを味わっていただきたいです。
(聞き手・伏貫淳子)