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歌手のアデルと“エモい”文字 トマス・ディクソン『感情史──歴史学からのメッセージ』

記事:白水社

トマス・ディクソン著『感情史──歴史学からのメッセージ』(森田直子訳、白水社刊)は、喜怒哀楽をはじめ、共感力や恐怖症、同性愛まで、それらが「感情」として一括りにされるようになった変遷を、わかりやすく明快に解説する。
トマス・ディクソン著『感情史──歴史学からのメッセージ』(森田直子訳、白水社刊)は、喜怒哀楽をはじめ、共感力や恐怖症、同性愛まで、それらが「感情」として一括りにされるようになった変遷を、わかりやすく明快に解説する。

 2022年1月20日、歌手のアデルは自身のインスタグラムのアカウントに、ラスベガスの高級ホテル「シーザーズ・パレス」で翌日から予定されていた定期コンサートのキャンセルを伝える動画を投稿した。「ごめんなさい、公演の準備ができていないの」と、アデルは動揺して取り乱した様子で言い、その理由として新型コロナウイルス感染症の混乱を挙げた。「がっかり、がっくりよ、そして、ごめんなさい、こんな直前で」と、彼女は鼻をすすったりかんだりしながら釈明する。「動揺しまくりだし、すごくきまり悪くって、わざわざ来てくれた皆さん、本当にごめんなさい」と言うと、アデルの顔はくしゃくしゃになる。彼女は溜息をつき、涙をこらえるように頰を膨らませ、震える声で繰り返し謝罪したのち、公演の予定を変更することを約束する。その動画には、近日中に詳細を伝えることを約束する言葉とともに、赤い壊れたハートマークの絵文字が添えられている。この感情に訴える投稿は、半日のうちに800万回以上再生された。

 

【Adele Tearfully Postpones Her Las Vegas Residency】

 

 アデルの謝罪はおそらく世界史的な意義を持つ出来事ではないだろうが、感情が21世紀にソーシャルメディアを通じてどのように振る舞われるかを示す興味深い例であり、感情をめぐる話された言葉と視覚言語の歴史への導入にちょうどよい。未来の歴史家がこの動画に大いなる興味を持ち、2020年代の感情的な慣習や言語について何を明らかにするのだろうか、と想像してみよう。彼らはその動画が用いる方法、すなわち、多額の旅費とチケット代を払ったため内心では怒っているだろうファンに対して、歌手の後悔の念の深さを伝えるために涙ながらに謝罪するという公的な儀式について考えるだろうし、逆に、この感情的な振る舞いパフォーマンスが、アデルというブランドへのダメージを抑える明らかに合理的な商業的目的を持っていた、と考えるかもしれない。未来の感情史家はまた、アデルの言葉の意味を理解する必要もあるだろう。彼女は自身の感情状態を表現するのに、少なくとも4つの異なる言い回し、「本当にごめんなさい(I’m so sorry)」、「がっかり(I’m gutted)」、「動揺しまくり(I’m so upset)」、「すごくきまり悪い(I’m really embarrassed)」を用いている。

Broken Heart[original photo: Mehr – stock.adobe.com]
Broken Heart[original photo: Mehr – stock.adobe.com]

 うまくいけば、将来の研究者も『オックスフォード英語辞典(OED)』を利用できて、アデルの言葉の歴史的用法を研究することができるだろう。そうすれば、彼らは、「ソーリー(sorry)」という単語が感情用語である「悲しみ(sorrow)」からではなく、身体的な傷、病い、吹出物、かさぶたを意味する北欧の言葉に由来するという、驚きの事実を発見するだろう。この意味において「ソーリー」であることは、悲しいと感じることではなく、傷で覆われていることだった。英語圏の人びとは1750年代ごろから「きまり悪い(embarrassed)」と感じてきた。この言葉の初期の用例は、『若き貴婦人の思い出の記(The Memoirs of a Young Lady of Quality)』という感傷的な小説のなかで、内気な修道士が女性の手を取るのを描写するのに用いられたものである。また、感情的な意味での「動揺した(upset)」の最初の例としてOEDが示すものは、1805年のブラックウッド船長に由来する。彼はトラファルガーの戦いでネルソン〔提督〕が亡くなったことを聞いたときほど、「大きなショックを受けて完全に動揺してしまった」ことはなかったという。アデルの感情語でもっとも新しい造語である「がっかり(gutted)」は、英語を母語とする多くの人びとにとっても馴染みがないかもしれない。これは、打ちのめされた、ひどく失望したという意味のイギリスの俗語で、情動的な感情とはらわたとのあいだの長きにわたる歴史的なつながりを反映しているとはいえ、1970年代に初めて使われたものである。[略]

TRUST YOUR GUT crossword in letter tiles against textured handmade paper[original photo: MarekPhotoDesign.com – stock.adobe.com]
TRUST YOUR GUT crossword in letter tiles against textured handmade paper[original photo: MarekPhotoDesign.com – stock.adobe.com]

 

言葉なしで語ること

 私たちの感情状態は、言葉によってだけでなく、言葉を用いない言語によっても表現したり、伝えたりすることができる。たとえば、アデルがインスタグラムで涙ながらに謝罪したことを思い返すと、あれは多様な形態のマルチメディア的な感情の振る舞いパフォーマンスだった。単に彼女の言葉によってのみならず、身体言語、手の動き、息づかい、動揺して悲しげなものから弱々しく震えるものまでを含む声のトーン、そして、さまざまな表情によっても、彼女の感情が伝わってきた。これを演技パフォーマンスと呼ぶことは、それが不誠実であったことを示唆するのではない。感情はしばしば社会的な振る舞いパフォーマンスであり、それによって感情状態が忠実に表現されるかどうかはさておき、経験によって身についたさまざまな非言語的な要素をともなう。実際のところ私たちは、自分の振る舞いが完全に本物なのか、ことによると愛する人や同僚といった聞き手のために無意識のうちに少し大げさに振る舞っているのか、自分でも確信を持てないだろう。

Emotions line icon set[original photo: RI Rafiq – stock.adobe.com]
Emotions line icon set[original photo: RI Rafiq – stock.adobe.com]

 人間の表現には身体言語と表情言語があるという説、あるいは、ベンサムが言ったように、身体のエモーションは心の温度を示す可能性が高いという説は、文化を超えて普遍的なものだろう。しかし、そのような言語に見られる語彙や文法は、普遍的ではない。たとえば、古代インドの美学理論であるラサ、、や現代の情動プログラムの理論である基本感情説は、かなり誇張され形式化された表情を含め、人体が示す感情を読み取る方法を提示しているが、その細部は著しく異なる。[略]

Customer satisfaction meter with emoticons icon[original photo: katet – stock.adobe.com]
Customer satisfaction meter with emoticons icon[original photo: katet – stock.adobe.com]

 感情を表す言語のレパートリーに最近加わったのが、顔文字と絵文字である。19世紀に、感情を示す表情を表すために印刷術の機能を遊び心たっぷりに使用した例がある。その一例が、1881年にアメリカの風刺雑誌『パック』が作成した滑𥡴な「情念と感情の習作」である(図版)。同じような例は17世紀にもあったと断言できる。しかし、顔文字が肯定的または否定的な感情反応を表現するために広く使われるようになったのは、1980年代以降であり、顔文字の仲間である象形文字的な絵文字は、1990年代後半の日本の携帯電話において初めて登場した。絵文字は現在、スマートフォンやソーシャルメディア上のコミュニケーションにおいて、ほぼ普遍的な機能となっている。それらは単純な怒り顔、泣き顔、笑い顔を表したものだけでなく、目をハートや星に置き換えた顔、嘔吐する顔、上向きの親指や下向きの親指、すくめた肩、ムンクの絵画『叫び』をもとにした顔、幸運を祈るよう組まれた指、バイバイしている手、逆さまの顔、寝顔、髑髏どくろ、エイリアン、動物、排泄物、食べ物、飲み物、スポーツ用品、テディベア、爪切り、トイレットペーパーなど、さまざまである。

1881年の『パック』誌に掲載されたこの短い記事は、活版印刷の特性を用いて表情を作り出そうとした早い段階での実験である。[トマス・ディクソン『感情史──歴史学からのメッセージ』(森田直子訳、白水社刊)p.91より]
1881年の『パック』誌に掲載されたこの短い記事は、活版印刷の特性を用いて表情を作り出そうとした早い段階での実験である。[トマス・ディクソン『感情史──歴史学からのメッセージ』(森田直子訳、白水社刊)p.91より]

 何千もの絵文字のなかには、より感情的なものもある。アデルがインスタグラムに謝罪の投稿をしたときに、赤い壊れたハートマークの絵文字を付け加えたように、私たちはいまや、膨大な種類の記号や絵文字から言葉を置き換えたり補足したりできる。それらは、一種の感情の調味料のような役目を果たし、文字や視覚的なメッセージに感情的な風味を加える。そして、過去何世紀にもわたってそうであったように、視覚的なものと言語的なものは互いに特徴づけ形づくり続けているのである。オックスフォード・ランゲジーズ社は毎年、「今年の言葉」を発表する。2015年の「今年の言葉」は、最初で唯一、通常の意味での「言葉」ではなく、「涙を流す笑い顔」の絵文字が選ばれた。これは、2015年に世界でもっとも使用された絵文字であり、オックスフォード・ランゲジーズ社は、絵文字そのものとemoji という単語の両方の使用が大幅に増加したことを含め、その年の「気風エートス雰囲気ムード、関心事」をもっともよく表していると判断したのだった。

Face with tears of joy emoji[original photo: vadymstock – stock.adobe.com]
Face with tears of joy emoji[original photo: vadymstock – stock.adobe.com]

 私はイギリスの学校で仕事をするなかで、絵文字と感情語との境界線が曖昧になりがちなことを目の当たりにした。ある実習で、子どもたちに思いつくかぎりたくさんの感情を挙げてもらったところ、そこには、「メー」〔無関心を表す擬態語で無表情の顔〕や「ウィンキー」〔ウィンクしている顔〕などの絵文字の名前が挙がっていることに気がついたのだ。この種の絵文字化に懸念を表明する文化評論家もいる。正式な言語ではなく短文や絵文字を使いつつ、スマートフォンやソーシャルメディアで会話する子どもたちの語彙が貧弱になる、と彼らは心配する。しかし、そうではなく、21世紀初頭の絵文字の出現は、単語、表象、感情が、ともに変化と進化を続ける数千年来の文化史における、次の段階を表わしているかもしれないのだ。

 

【トマス・ディクソン『感情史──歴史学からのメッセージ』(森田直子訳、白水社刊)所収「第3章 情念から絵文字へ」より】

 

【Prof Thomas Dixon Seminar - 'What is the history of emotions, and why does it matter?'】

 

トマス・ディクソン『感情史──歴史学からのメッセージ』(森田直子訳、白水社刊)目次
トマス・ディクソン『感情史──歴史学からのメッセージ』(森田直子訳、白水社刊)目次

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