日本人とは誰なのか? 横浜竜也著『移民/難民の法哲学 ナショナリズムに向き合う』書評(谷口功一)
記事:白水社
記事:白水社
近年の日本社会では、これまでとは明らかに違った形で「移民/難民」について語られるようになった。直近の選挙で目覚ましく躍進した参政党は「日本人ファースト」というスローガンを掲げていたが、まさにこの「日本人とは誰なのか」という問いかけが、真正面からタブーなき形で言説空間に登場してくるようになったのである。
本書は、このような問題に関して法哲学・政治哲学の観点から様々な理論的アプローチを整理・解説した上での議論を試みるものだが、その深層には先述の「日本人とは誰なのか」という問いに対して真摯に応答しようとするライトモチーフが通奏している。
本書劈頭、1970年生まれの著者の思想遍歴から語り起こされるが、かつて一世を風靡した加藤典洋の『敗戦後論』(※1)の話から始まる「移民/難民」関連の著作は、異例といっても過言ではないだろう。
89年のベルリンの壁崩壊以前には、「従軍慰安婦」問題にまつわる歴史認識が盛んに論じられていたが、それにまつわる「謝罪・補償」論(戦後世代の戦争責任論)から、謝罪する日本の「主体構築」問題を改めて剔出し、「ネイション」や「ナショナリズム」の問題へと接続してゆく展開は新鮮でさえある。
この点についてある思想史研究者から聞いた「あの頃、自分もいた駒場(東京大学の教養課程)では、高橋哲哉(哲学者)によるナショナルな主体構築への警戒と批判がひどく説得力を持っていたように感じられたが、時代は変わりましたね」という言葉の通り、30年の歳月を経て、時代は大きく変わったのである。
本書の大きな特徴のひとつとして、先述の通り「移民/難民」問題に関する様々な理論を網羅的に整理し、議論の見通しを良くしている点が挙げられる。これらの理論は「開放国境論(Open Border Theory)」と「国境管理論(Border Control Theory)」のふたつに大別されるが、著者は「開放国境論」を明確に否定した上で、後者に立脚することを正々堂々と明らかにし、議論を展開してゆく。
一般に大学人は移民・難民に関して相対的に寛容な傾向が強く、特にその傾向が顕著な国際人権法分野の研究などを管見する限りでは、著者のような立場はどちらかというと歓迎されざるものだろう(著者自身も、そのことを気にしていた)。しかし、そうであるからこそ本書には大きな価値と魅力があるように思われるのである。
移民正義論においては、従来「移動の自由」こそがデフォルトの出発点であったが、それに対してハッキリと理論的根拠をもって「否」を発する本書は、かつての長谷部恭男(憲法学)が提起した議論のありようを想起させる。
強烈な磁場に長らく捕らわれ続けてきた「九条論」という言説アリーナでは、「違憲合法論」をはじめ様々な議論が百出してきたわけだが、それにひとまずの終止符を打ったのが、長谷部だったと私は認識している。
長谷部は、のちに『憲法と平和を問い直す』(ちくま書房、2004年)に結実する「自衛隊合憲論」を90年代末期から展開し学界内での反撥も受けたが(※2)、その主張はのちにほぼ定説化し、むしろ「護憲派」にとってのマジノ線(最終絶対防衛ライン)とでもいうべきものとなったのだった。
本書は、そのような意味での勇を奮った(しかし、理論的には着実な)企投であるわけだが、しかし豊かな現実の事例へと降りてゆく「各論」にも滋味を有している。ナショナルなアイデンティティのあるべき姿について抽象的に論じるだけでなく、「一時的労働者」・「頭脳流出」・「不法滞在者」などのディテールにも目配りし、最終章ではシンガポールという移民正義論における魅力的なアノマリー(異常な例外)について論じているのが目を惹く。
シンガポール国立大学での研究滞在の経験をもとに、リベラルでない(illiberal)にもかかわらず、国境管理/移民政策を「上手く」やっている(ように見える)シンガポールが、リベラル・デモクラシーを自明のものと考えがちなわれわれにとっての、ある種のストレス・テストのように描き出されてゆくのだ。同国内で階層化された外国人労働者たちの姿、住み込みの外国人家事労働者(メイド)、そして仏教・イスラム教・ヒンドゥー教・キリスト教が混然と共存する中での「宗教調和維持法」などの豊富な事例。極めつきは、多人種「統合」のための巨大な装置としての住宅政策=HDB団地(※3)である。
理論からディテールにわたる事例まで網羅した本書は、今後、「移民/難民」について考えてゆく上での確かな一里塚のひとつとなるだろう。
※
谷口功一(東京都立大学教授)