脱資本主義は脱成長からはじまる ──『資本主義はなぜ限界なのか』(江原慶著)書評 評者:斎藤幸平
記事:筑摩書房
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2025年のノーベル経済学賞は、新シュンペーター主義のイノベーションについての研究に対して授与された。受賞者の一人であるフランスの経済学者フィリップ・アギヨンは、2021年に、世界銀行グループと国際通貨基金(IMF)が共同設立した「持続可能かつ包摂的な復興と成長に関するハイレベル諮問グループ」(HLAG)に任命されている。
世界銀行とIMFは、財政難に苦しむグローバルサウスに対して、構造調整プログラム(SAPs)を押し付け、民営化や規制緩和を迫ってきた。その際の魔法の言葉が、イノベーションと経済成長である。イノベーションと経済成長で、借金を返せというわけだ。ノーベル賞の権威もあり、こうして、成長とイノベーションが必要だという考えが、ますます強化される。イノベーションこそが資本主義の原動力であり、成長の源泉は「創造的破壊」だというのだ。これが不平等を生み出すのであれば、それは必要悪だと、アギヨンは述べる。
では、SAPsの現実はどうであったか。資源や土地を外国企業に売り渡し、水道や電力の民営化によって、一部の人間は豊かになったかもしれない。だが、それは、多くの庶民の暮らしを破壊し、自然を荒廃させた。いわゆる「ショック・ドクトリン」(ナオミ・クライン)の世界だ。アフリカやラテンアメリカは今も貧しいままである。
成長と破壊。資本主義のもとでは、二つは完全に両立する。資本を増やすことは、人間の幸福や環境の持続可能性とは、直接の関係がないからである。むしろ、安い労働力と安い自然を搾り取る方が資本は成長するのだ。もちろん、ここに、女性が担ってきたケア労働へのただ乗りを加えてもいい。要するに、資本主義とは、公正な競争のもとで、イノベーションが生活を便利で豊かにしてくれる社会ではない。むしろ、しばしば暴力的に富を奪い、無償で労働を収奪するのが資本主義である。
だからこそ、そのような成長を続けても、私たちは豊かにならないし、むしろ格差はますます広がっていく。だからこそ、「経済成長を疑う」べきなのだ。それが近年、世界的に注目を集めている「脱成長」の主張である。
とはいえ、「経済成長を疑う」のは簡単ではない。経済成長は、私たちの社会における常識だからだ。それに日本の「失われた30年」で成長をしていないことが、円安や貧困の原因ではないか。たしかに、そうした面もある。
それゆえ、脱成長という考えは、しばしば孤独な戦いを強いられる。私の『人新世の「資本論」』も、多くの批判に晒された。意外に思うかもしれないが、普段、マルクスとか社会主義とか言っている「絶滅危惧種」の左派の方が、脱成長に批判的だったりする。古い世代は、左翼であっても、成長が好きなのだ。
だからこそ、今回の本で、同い年の江原慶さんが、マルクス経済学の立場から、脱成長を擁護する本を書いてくれたのは、嬉しい驚きだった。「驚き」というのは、マルクス派にもいろいろあって、江原さんはいわゆる宇野(弘蔵)派。私は久留間(鮫造)派。別に今は昔の時代のように争っているわけではないが、理論的な土台が違うのは事実なので、こうやって、脱成長が広がっていくのは、変化の兆しと言える。
この本の重要な結論は、「脱資本主義は脱成長からはじまる」ということだ。これは、「資本主義を推し進めた先に脱資本主義があり、その先には、社会主義のもとでの成長がある」という伝統的な左派の議論とは一線を画す。そして、無限の成長と手を切るからこそ、脱成長経済は「社会の維持に必要なものは何なのかという問いに、再度向きあう」のだ。これこそが、近年の無責任な反緊縮とは異なる「財政民主主義」である。
脱成長経済への転換は容易ではない。だが、脱成長は空想ではないのだ。本書によって、マルクス派の脱成長に理論的な基礎づけが与えられた。経済成長を疑う代わりに、「脱成長を疑う」ばかりの方には、ぜひ、本書の一読をお勧めしたい。
はじめに
第一章 経済学の歴史――経済成長はいかにとらえられてきたか
第二章 脱成長とは何か――経済成長概念の限界
第三章 高度経済成長の条件――資本・労働・環境
第四章 低成長の時代――帝国主義的世界像の瓦解
第五章 惑星の限界――プラネタリー・バウンダリー下での再生産
第六章 脱成長論の基本構造
第七章 企業の価値を問いなおす――脱成長株式市場論
第八章 貨幣の価値を問いなおす――脱成長貨幣論
第九章 資本主義の先へ――成熟した社会と脱成長
参考文献/あとがき