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故郷と異郷をめぐる旅――作家・坂口䙥子が描いた周縁世界

記事:明石書店

『台湾山地を愛した女(ひと)――坂口䙥子の生涯と創作』(小笠原淳著、明石書店、2026年)。球磨川河口から天草諸島を望む
『台湾山地を愛した女(ひと)――坂口䙥子の生涯と創作』(小笠原淳著、明石書店、2026年)。球磨川河口から天草諸島を望む

 本書は、敗者の美学を語ったものではなく、周縁に身を置くものたちの豊かさを、一人の女性作家の生涯を通してひもといたものだ。

坂口䙥子とはだれか    

 1940年代の日本統治期台湾で異彩を放つ小説を発表し、戦後は「蕃地」(1953)で公募新人賞の新潮社文学賞を受賞、「蕃婦ロポウの話」(1960)などで芥川賞候補にも挙がったものの、日本文学史の中ではほとんど忘れられてしまった女性作家がいる。坂口䙥子(さかぐち・れいこ 1914-2007)である。

台湾で出版された『鄭一家』(清水書店、1943年)、戦後の小説集『蕃地』(新潮社、1954年)と『蕃婦ロポウの話』(大和出版、1961年)
台湾で出版された『鄭一家』(清水書店、1943年)、戦後の小説集『蕃地』(新潮社、1954年)と『蕃婦ロポウの話』(大和出版、1961年)

 坂口は1938年に故郷の熊本県八代から日本統治下の台湾へと渡り、自分の肌で感じた植民地の現実の重みと現地経験を活かして、帝国の皇民化運動に巻きこまれた台湾本島人や山地原住民の葛藤を、ストレートな筆致で描いた。とりわけ台湾山脈の奥地霧社のタイヤル族が暮らす山地に刻まれた植民地主義の傷痕、抗日武装蜂起「霧社事件」(1930年)がもたらしたトラウマをめぐるラディカルな創作は、彼女の存在を「蕃地作家」として強く印象づけるものだった。

 伊藤整は、「植民地という言葉にからまる問題を、日本人として受け身のものとしてでなく、積極的な立場で考えたところは、強い思考力のある人だと思う」と評して、この「男性的な文体」をもつといわれた女性作家の登場を歓迎し、その将来に強い期待を寄せていた。しかし、経済成長の狂騒の中で、戦争の記憶が急速に風化していく1960年以降、坂口の文学は台湾山地の記憶とともに色褪せていく。それは常に周縁に身を置いていた坂口が、男性中心主義の中央集権的な「文壇」の中で、しかるべくして淘汰された結果だともいえるだろう。

坂口を支えた小さきものたち

 この小さな女性作家の存在を、今どのように再構築すべきか。国家の「正史」を離れて、移動や越境という視点から相対化してとらえなおすとき、坂口が残した土地固有の物語は、日本と台湾、戦中と戦後、過去と現在の時空をつなぐ新たな意味を宿して、現代に息を吹き返すかもしれない。そのような再発見の契機として、私は本書を書き下ろした。

 新聞の些末な記事や同人誌の連載などから、作家の生い立ちやエピソードを拾い集めて伝記事実を構成した。そうしてひと綴りにしてみてようやく、坂口が生涯大切にしていた事象が可視化されてきた。それはささやかで、素朴だが、掛け替えのない大切なものから成っていた。愛する家族や友人たち、球磨川と不知火海、城下町の笹垣や町を覆うクスの若葉、ザボンやセンダンの花。八代城跡の古井戸やドングリの実。こうした小さきものたちの集積が、彼女の「故郷」意識の根底を支え、農民気質で頑固だが愛情深く、慎ましい人格を形づくっていたのである。

 坂口の文学テクストは、この故郷(ホーム)を起点とし、異郷への〈移動〉にともなって生じた発見、そして喪失感や郷愁、さらには、相対化された台湾山地の世界が中心的なテーマとして探求されている。そうであるからこそ、本書では坂口の歩みを戦中と戦後とに分断することなく、一つの連続した経験としてとらえ、作家の全体像を浮き彫りにする必要があった。

「異郷」台湾への旅立ち

 本書の第1部「球磨川の流れる町――八代時代」では、周縁の土地八代での生い立ちを追った。最愛の妹の死によって天真爛漫であった少女時代が終わりを告げ、䙥子は肉親を喪失した慰みを、作歌へと向けるようになっていく。青春期の内的葛藤を抱えた等身大の山本䙥子の姿を、地元の雑誌に投稿された短歌を透して照らし出した。

 第2部では、「台湾時代」の足跡をたどっている。平凡な日常に飽き足らず迷いを抱えながら好奇心に駆られて、彼女は一人「異郷」台湾へと旅立った。初めての「越境」体験は、田舎者の若い女性の眼を見開かせ、その人生に大きな転機をもたらす。坂口は「美麗島」(フォルモサ)の明るい風景の中に、植民地主義の「灰色の影」を見出して、その陰影を物語に織りこんでいったのである。極端な皇民化や総督府の原住民政策「理蕃」に対する違和を、個の日常生活や血縁のなかに感じ取って直截的に表現した。

1940年秋、台湾日月潭での新婚旅行。サオ族の杵歌を背景に、右から坂口䙥子、登志子、貴敏
1940年秋、台湾日月潭での新婚旅行。サオ族の杵歌を背景に、右から坂口䙥子、登志子、貴敏

「鄭一家」(1941)では、台湾人固有の言語や風俗を歪めてまで「日本化」しようとする日本帝国の皇民化に疑問を投げかけ、皇民化の模範家庭である台湾人の鄭家における家庭内の矛盾と、彼らのささやかな抵抗が描かれる。また、「時計草」(1942)では理蕃政策の犠牲者である山地のエリート青年を主人公に立てて、民族と血縁をめぐる葛藤を表象した。大胆にも、禁忌とされていた霧社事件にまで踏みこんだため、本作は当局から発禁処分を受けている。

山地疎開とタイヤル女性との交流

 太平洋戦争末期、台中市でも米軍爆撃機の空襲が始まると、坂口は霧社のタイヤル族セデックが強制移住させられた「蕃地」(台湾総督府は、原住民が暮らす山地を蕃地と称した)への疎開を決意する。戦後を見据えて彼女の背中を押したのは、台湾人日本語作家の楊逵(1905-1985)であった。

 当時の回想をひもとくと、坂口が台湾山地に故郷八代の風景を重ね合わせ、原住民女性に同郷者のような共感を抱いていたことがわかってきた。台湾山地とは、彼女にとって異郷の中の「故郷」に他ならなかったのである。

 日本人とタイヤル族の愛憎が入り混じるこの山地で、坂口はタイヤル族女性との間に、姉妹愛ともいうべき一時の美しい交流を結ぶのである。そしてやはりこの地で、戦争を憎んだ兄が南洋で戦死したことを知ることになる。興味深いのは、坂口がこの山地での交友や複雑な情感を個人的な「想い出」として秘すことなく、「蕃地」や「蕃婦ロポウの話」などの物語へと紡ぎあげ、積極的に他者と共有しようとしたことだ。彼女の中には、宗主国の女性作家として植民地台湾に暮らしたことの責務と、加害者としての罪の意識が渦巻いていたのだった。

霧社のディアスポラを描いた「蕃婦ロポウの話」

 これまでの研究では、坂口の戦後の動きがよくつかめていなかった。第3部の「熊本時代」は、戦後、熊本に引き揚げた坂口が、中央文壇に発表の機会を得ていく歩みを詳らかにしたものだ。外地からの引き揚げ者の苦しい生活と夫貴敏の急死を乗り越えるように書かれた、霧社の離散(ディアスポラ)の物語「蕃婦ロポウの話」が生成される過程は、この章の核となるものである。

丹羽文雄が坂口䙥子に宛てた葉書(1953年7月)。丹羽に導かれて坂口は『文学者』で発表の機会を得た
丹羽文雄が坂口䙥子に宛てた葉書(1953年7月)。丹羽に導かれて坂口は『文学者』で発表の機会を得た

 坂口の人生の終着点となった「東京時代」(第4部)は、彷徨と郷愁という言葉で語ることができるだろう。1962年に熊本を離れ上京した後、彼女は魂の拠り所を失い、大都会の底流を根無し草のように彷徨いはじめる。故郷が心理的な距離をもつにしたがって、強まりゆく郷愁が、2篇の郷土ものを彼女に書かせている。天草の離島を舞台にした、死をめぐるパラレルな思索「風葬」(1964)と、文明から疎外された盲人一家の孤独を描いた「盲目の樹」(1966)がそれである。

故郷と異郷をつなぐ「白き路」

 さて、このように作家の生涯を通観し終えるとき、一つの言葉が浮かんできた。坂口が短歌を詠みはじめたばかりの頃に用いた、「白き路」である。それは、坂口にとって故郷から愛する台湾山地へとつづく詩的なイメージを含み、日本と台湾、戦中と戦後をしなやかに接続する。花の蒔かれた絢爛な路(ロード)ではなく、白々と乾いた小路を歩みながら、坂口は身近な者との悲痛な別れをいく度も経験してきた。戦争は彼女から姉と兄を次々に奪い、台湾人の友や原住民の女たちの運命を激変させた。そう考えるとき、「白き路」とは、坂口の波乱に満ちた生涯、そして数々の出逢いと別れの象徴と見なすことができるのである。

 最後に、これはまったくの余談になるのだが、私は本書の執筆中、坂口の亡霊を見ているような気がしていた。それは、借家の食卓に覆いかぶさるように背を丸めた彼女が、一心不乱に台湾山地の物語を書き進めているその小さな姿だった。

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