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「われわれ」と「彼ら」の境界を問い直す――分断の時代に読む『エスノセントリズム』

記事:明石書店

『エスノセントリズム――〈集団〉と〈境界〉を理解するための統合的視座』(ボリス・ビズミック 著、石部尚登 訳、明石書店)
『エスノセントリズム――〈集団〉と〈境界〉を理解するための統合的視座』(ボリス・ビズミック 著、石部尚登 訳、明石書店)

分断の時代にエスノセントリズムを問い直す

 世界各地で紛争や人道危機が続いている。ガザ、ウクライナ、スーダン、ミャンマー。これらの危機には、民族的アイデンティティや「ウチ」と「ソト」を分かつ境界線が深く関わっている。また、SNS上の「エコーチェンバー」や「フィルターバブル」も、集団内の結束を強め、外部への攻撃性を先鋭化させている。

 こうした分断の時代において、集団間の対立や排外主義をいかに捉えるべきか。

 オーストラリア国立大学のボリス・ビズミックによる『エスノセントリズム――〈集団〉と〈境界〉を理解するための統合的視座』は、この問いに正面から向き合う一冊である。本書は、心理学を軸にしながら、社会学、政治学、人類学、生物学、マーケティング研究など、複数の分野にまたがる知見を統合し、エスノセントリズムとは何か、その要因は何か、そしてそれがどのような帰結をもたらすのかを明らかにしようとする。

 エスノセントリズムは、一般に「自民族中心主義」とも訳される。自分たちの民族集団を中心に世界を見て、他の集団を劣ったもの、異質なもの、危険なものとして捉える態度。そう説明すれば、差別や排外主義、ナショナリズム、民族紛争といった現象がすぐに思い浮かぶかもしれない。

 しかし、本書が示すのは、この概念を単なる「他者への嫌悪」や「差別的態度」として理解するだけでは不十分だということである。著者が試みるのは、エスノセントリズムを、集団に生きる人間がどのように「われわれ」と「彼ら」を区切り、その境界にどのような価値を与えるのかを捉えるための、より精密な分析概念として再構成することである。

ラベルから連続体へ

 本書の重要な特徴の一つは、エスノセントリズムを「エスノセントリズム的か否か」で二分する類型として扱わない点にある。著者は、エスノセントリズムを、特定の人びとだけに見られる病理的な特性ではなく、程度の差こそあれ、誰もがその上に位置づけられる連続体として捉え直す。

 これは大きな転換である。私たちはしばしば、差別や排外主義を他人事として考えたくなる。「あの人は差別主義者だ」「あの集団は排他的だ」と名指しすることで、自分自身をその外側に置こうとする。しかし、自分の属する集団をよく見たいという気持ち、外部からの批判に不快感を覚えること、自分たちのやり方を自然で正しいものと感じることは、誰のなかにも生じうる。

 エスノセントリズムを連続体として捉えることは、この概念を、他者を断罪するための評価ラベルから、自己理解と社会理解のための思考の道具へと位置づけ直すことでもある。エスノセントリズムは、特定の誰かだけに向けられる批判語ではなく、集団と境界を理解するために、いまなお有効な概念である。

六次元モデルが示す「連帯」と「排除」

 著者は、この複雑な態度を「内集団」に向けられるものと「外集団」に向けられるものの二つに大別し、六つの次元から整理する。まず、内集団への献身や忠誠に関わる「献身性」と、集団の結束を重んじる「集団凝集性」がある。一方、内集団を外集団より好む「選好性」、他集団より自集団が優れているとみなす「優越性」、他集団との接触や混合を避け、集団の純粋性を保とうとする「純粋性」、そして自集団の利益のために他集団を犠牲にしうるとする「搾取性」である。 

 この六次元モデルが示唆的なのは、エスノセントリズムが外集団への敵意だけで成り立つものではないことを明らかにする点にある。内集団への献身や連帯、共同体の維持は、しばしば肯定的なものとして語られる。自分たちの文化を守る。共同体の絆を大切にする。共通の規範を維持する。これらは、それ自体としては必ずしも危険なものではない。

 しかし、そうした内集団への肯定的な志向は、条件次第で外部への排除や敵視へと転化しうる。共同体のまとまりを守ろうとする態度が、異質な他者への警戒や拒絶につながることがある。文化を守ろうとする言説が、混交や変化を「本来性の喪失」とみなし、純粋性を求める態度と結びつくことがある。つまり、集団への愛着は、連帯を支える力であると同時に、境界を強化する力にもなりうる。

 この点は、訳者の専門である社会言語学の問題とも深く関わる。ある言語が「標準語」や「公用語」として制度化され、別の言語や変種が「方言」や「なまり」として周縁化されるとき、そこには単なる実用性だけでは説明できない価値づけが働いている。「正しい日本語」「美しいフランス語」「乱れた言葉」といった言い方は、単なる言語形式の評価にとどまらず、誰のことばが中心に置かれ、誰のことばが周縁化されるのかという境界線を作り出す。

 もちろん、少数言語や地域語を守ろうとする運動にも、共同体への愛着や献身は重要な役割を果たす。問題は、その愛着がどのような条件のもとで、他者の排除や序列化に結びつくのかである。本書の六次元モデルは、両者の連続性と、排除や序列化に結びつく条件を考えるための枠組みを与えてくれる。

学問の「井戸」と言語の壁

 もう一つ、本書の大きな魅力は、エスノセントリズムを研究対象として扱うだけでなく、学問そのものに潜むエスノセントリズムを問い返している点にある。第7章で著者は、心理学という学問が、研究テーマ、理論的枠組み、研究手法、心理学史の語り方、制度的枠組み、学術的社会ネットワーク、引用パターンにおいて、特定の社会や文化を中心に組み立てられてきたことを批判的に検討する。

 心理学は、人間一般についての科学であることを目指してきた。しかし、その知見の多くは、西洋の、教育水準の高い、工業化された、豊かで、民主的な社会、いわゆるWEIRD社会のデータに依拠してきた。限られた社会の人びとを対象に得られた知見が、あたかも普遍的な人間心理であるかのように語られてきたのである。この問題は心理学に限らず、人文・社会科学全体にも及ぶ。

 そのなかで本書がとりわけ重要な論点として示すのが、学術コミュニケーションにおける言語の問題である。英語が国際学術言語として圧倒的な優位を占めることで、知の生産は中心―周縁構造を帯びる。英語を母語としない研究者は大きな労力を払い、英語圏の研究者は英語以外で蓄積された知にアクセスする必要性を感じにくくなりがちである。

 これは単なる不公平の問題ではない。どの言語で考えるかは、何を自然な前提とみなし、何を重要な問いとして設定するかに深く関わっている。研究者は、自らが身を置く言語や制度的環境のなかで世界を見ている。その意味で、学問の世界にも「井戸」がある。その井戸の内側で作られた知が、普遍的な知として語られるとき、そこには学問的なエスノセントリズムが生じる。

 本書の第7章は、エスノセントリズムにとらわれない心理学を構想するための議論であると同時に、学問一般に対する自己省察としても読むことができる。

境界を見つめ直すために

 エスノセントリズムは、おそらく人間の集団性に深く根ざしている。完全に取り除くことは難しいのかもしれない。だからこそ、それがどの次元で強まり、どのような条件のもとで排除や敵視へと転化するのかを見きわめる必要がある。

 「われわれ」とは誰のことなのか。その境界は誰が、どのように引いているのか。境界の外側に置かれた人びとは、どのように見られているのか。そして、自分自身はその境界をどのように支えているのか。

 エスノセントリズムは、遠い世界の問題でも、過去の問題でも、極端な人びとだけの問題でもない。それは、私たちが世界を「ウチ」と「ソト」に分けて理解しようとするとき、すでに働きはじめている。本書『エスノセントリズム』は、その見えにくい力を浮かび上がらせ、集団と境界をめぐる私たち自身の思考を問い直すための一冊である。

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