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「人種」という「枠組み」はいつ発明され、いかに日本人に適用されていったのか?

記事:明石書店

ロテム・コーネル著、滝川義人訳『白から黄色へ――ヨーロッパ人の人種思想から見た「日本人」の発見』(明石書店)
ロテム・コーネル著、滝川義人訳『白から黄色へ――ヨーロッパ人の人種思想から見た「日本人」の発見』(明石書店)

 「日本人」は「白い人」とみなされていた、と聞くと、あなたは驚くだろうか。

 マルコ・ポーロの13世紀の旅行記である『東方見聞録』には、日本人は「肌が白く、文明的で、器量がよい」と記されていた。もっともポーロは中国で伝聞を聞いただけで、日本に行ったわけではない。しかしこの記述は欧州世界に影響を与え、16世紀にポルトガルやスペインの宣教師や商人が実際に日本に訪れるようになっても、日本人の肌を「白い」と形容した記述が多数記されるようになった。

 コーネル氏によれば、アジア人の肌の形容として「黄色」が出現するのは17世紀からである。そして、日本人が劣位に位置づけられるようになったのは、18世紀になってからだった。

「人種」という概念の発明

 だがコーネル氏のこの本は、「日本人は白人とみなされていたのに、黄色人種とみなされるようになった」という経緯を記したものではない。彼がテーマとしているのは、「人種」という「枠組み」そのものが歴史的な発明品であること、そしてその「枠組み」がいかに日本人に適用されていったかの経緯の解明、という二点にある。

 まず、「人種」が歴史的に発明された「枠組み」であるという点を説明しよう。

 人間集団を特徴づけ、区分する基準は、肌の色や身体的相違だけではない。他の基準もいろいろある。たとえば戦争の強さ、技術的な水準、社会的な組織力、礼節や誠実さといった資質などだ。キリスト教徒か否かも、ヨーロッパ人にとっては重要な基準であった。こうした一連の「パラメーター」のなかから、どれを重視するかは、時代によって変遷したのである。

 じつはポーロは、彼が訪れた中国の人々の身体的外見には、一言も触れていない。他の「パラメーター」の方が重要だったからである。彼が日本人を「白い」と形容したことも、その後の同様の記述にしても、現代的な意味で「白人」と位置づけたわけではない。

 それに対し現代的な意味での人種概念は、他のパラメーターよりも、肌の色や身長といった身体的外見を重視する。そして世界の人間集団を、欧州人を頂点としたピラミッド型の階層構造として位置づける。

 これが出現したのが18世紀である。この時代には、自然界のヒエラルヒーと人間界のヒエラルヒーが、樹形型の分類として示されるようになった。コーネル氏は、植物を系統図にしたことで知られる植物学者のリンネが、アジア人を「黄色人種」と分類し、その一部に日本人を加えた1735年を画期点としている。

日本に注目したコーネル氏

 ただしコーネル氏も認めていることだが、人種が18世紀の発明品だという歴史的事実は、彼の新発見ではない。

 北米において、18世紀になって肌の色を基準とした区分が強化され、その他の基準を凌駕していったことには、すでに研究がある。またアフリカの植民地で同様の経緯があったことも、すでに研究がある。そこで区分される対象は、アフリカ系の人々であり、アメリカ大陸の先住民であった。

 しかしコーネル氏によれば、こうした研究は、重要な問題を回避している。

 アフリカ人と先住民は、欧州人からすれば、どのような基準から見ても劣位であった。彼らは軍事力も技術力も劣り、法制や行政組織も整っておらず、欧州人に征服され隷属していた人々だった。これまでの研究は、そのような集団に対して、身体的外見にもとづく人種概念があてはめられていった経緯を調べていた。

 しかしそれでは、軍事力も技術力もあり、社会的組織力や人間的資質も認められるが、欧州人と身体的特徴は違うという集団はどうだったのか。そうした集団、たとえば中国人やインド人、日本人が、劣位の「人種」とみなされていった経緯はどのようなものだったのか。この点を明らかにするのが、本書の意図である。

 この点で日本は、きわめて興味深い対象である。日本人は欧州人と外見が異なってはいたが、文明度や戦闘力においては、少なくとも16世紀まで欧州人と同等とみなされていた。しかも日本は最後まで植民地化されなかったうえ、19世紀までは欧州に脅威をもたらす存在でもなかった。

 その日本人が、「肌が白く、文明的で、器量がよい」と形容されていた状態から、「黄色人種」に位置づけられた。その経緯は、アフリカ人や先住民が人種概念の秩序に位置づけられていった経緯とは、異なるものであるはずだ。コーネル氏は、こうした点から日本に注目したのである。

 しかし、これは言うは易いが、行なうのは大変なテーマだ。特定の国に植民地にされた地域、たとえば北米やルワンダにおける人種概念の研究であれば、主要な資料は英語やベルギー語で書かれている。しかし日本は植民地化されなかったため、数多くの言語で書かれた商人や旅行者の見聞録や、宣教師の報告書などを読まなければならない。しかも、それが1300年から1735年までにわたるのである。

 実際に、本書の文献表は、ラテン語・イタリア語・ポルトガル語・スペイン語・オランダ語・ドイツ語・英語など、12もの言語の資料が膨大に記されている。これほど多言語の膨大な資料を読みこなしたのは、超人的な労作と言わざるを得ない。

巨大プロジェクトの第一歩

 しかもコーネル氏のこの著作は、彼のプロジェクトの一部に過ぎない。

 コーネル氏は、これまで日露戦争の研究者として知られていた。日露戦争における日本の勝利は、日本をアジアの強国として認知させた。これを機に、欧州では「黄禍論」が高まる一方、日本は朝鮮の併合にむけて動き出す。やがて日本は中国大陸に進出し、「白人」と戦うと称しながら欧米との戦争に入っていく。いわば日露戦争は、欧米と日本の双方において、人種主義が高まった画期点だったのである。

 『白から黄色へ』は、リンネの分類学に象徴される18世紀の動向までで終わっている。しかし彼は、このあと日露戦争前後に至るまでの2世紀にわたる人種主義論の展開と、それへの日本側の反応を記述した第二巻を準備中であるという。つまり『白から黄色へ』は、彼の巨大プロジェクトの第一歩なのである。

 こうしたコーネル氏の関心は、彼が日本に留学した1990年代から一貫したものである。彼が留学した筑波大学の図書館には、彼が1997年に書いた論文が所蔵されている。それは、当時の日本におけるユダヤ人観についてまとめたものだ。イスラエルのユダヤ人であるコーネル氏にとって、これは彼自身の問題でもあったのだろう。

 彼が一貫してテーマとしてきたのは、人種主義の問題と、周辺諸国との軍事や戦争という問題を、日本を通して考えることである。このテーマ設定には、イスラエル出身の日本研究学者というコーネル氏の立場が反映してもいよう。

 しかし、彼がそこに投じた超人的な努力の成果を目の前にするとき、これは彼にしかできない仕事であると認識せざるを得ない。そして、人類に普遍的な問題を、日本という対象から迫ろうとする執念と熱意と学識に、敬意を払わざるを得ない。本書の邦訳を心から祝うとともに、彼のプロジェクトの完成を待ち望む次第である。

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