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「近代日本の競馬」 熱狂の裏にあった軍事的側面 朝日新聞書評から

評者: 澤田瞳子 / 朝⽇新聞掲載:2022年08月13日
近代日本の競馬 大衆娯楽への道 (叢書パルマコン・ミクロス) 著者:杉本 竜 出版社:創元社 ジャンル:趣味・ホビー

ISBN: 9784422701264
発売⽇: 2022/06/16
サイズ: 19cm/341p

「近代日本の競馬」 [著]杉本竜

 現代日本で許可されている公営賭博は、競馬・競輪・競艇・オートレースの4種類。その中で最も人口に膾炙(かいしゃ)した競技が競馬であることは、他の3競技とは桁外れな売上高やシーズンごとに流れる数々の報道、はたまた昨今人気の競走馬を擬人化したゲームの存在などから明白だ。
 本書はそんな日本の近代競馬を豊富な史料に基づいてひも解いた一冊。幕末、外国人居留地たる横浜における欧米人の娯楽として始まり、明治期に至って西洋文明の象徴と用いられた日本近代競馬の濫觴(らんしょう)は、一見、単純な西洋文明受容の一例とも映る。だが興味深いのは明治・大正期の日本、ことに陸軍内部において、競馬が馬の改良の手段と見なされていた事実。ことに乗馬に親しんでいた明治天皇が自ら馬の品種改良を命じ、陸軍と宮内省が馬の改良育成を行う「馬政局」を巡って対立した経緯は、日本の近代化における軍事的側面を色濃く物語る。
 現在の公営競馬につながるレースはこの馬政局から始まるわけだが、賭事(かけごと)と軍人を関わらせたくない陸軍の懊悩(おうのう)、予想外の人気ゆえに競馬に殺到した興行主たちと馬政局の駆け引きといった数々の事件は、なまじ現代の競馬人気を知っているだけに、より生々しく我々の身に迫る。あまりに競馬が人気となった結果、国内で競馬賭博が禁じられていた1921(大正10)年、外遊中の皇太子裕仁(後の昭和天皇)がジブラルタルでアメリカ艦隊長官から競馬に誘われ、それが日本国内で大事件となったとのエピソードなどは、海外諸国との折衝、様々な近代文化の受容に苦慮した日本近代社会の象徴的事件とも受け取り得るだろう。
 そもそも21世紀に生きる我々にとって、馬は競馬や乗馬といった娯楽、はたまた動物園や牧場などの施設で接する生物に過ぎない。だが日本の近代において、馬は「馬政」の言葉に象徴される如(ごと)く政治的な存在であった。大正以降、朝鮮・台湾をはじめとする外地にも競馬場が作られ、ここでもまた陸軍や宮内省といった関係部署が様々な対立を繰り返す。一方でその中におのずと浮かび上がって見えるのは、二転三転する法律や厳しい制限にあっても賭博としての競馬に熱狂する庶民の姿であり、スピード重視のサラブレッドの増加、地方競馬場の発展など、現代競馬につながる競技競馬の萌芽(ほうが)。近代化の過程において翻弄(ほんろう)され、遂(つい)に忘れ去られた馬政を通じ、日本史の新たな断面とその成熟過程に触れるとともに、「歴史」の奥深さを再認識させられる一冊である。
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すぎもと・りゅう 1974年生まれ。桑名市博物館(三重県)館長。「大衆娯楽としての競馬」(奥須磨子・羽田博昭編『都市と娯楽』所収)、「軍馬と競馬」(菅豊編『人と動物の日本史3』所収)など執筆。