競馬の魅力とは何か。日本ダービー(東京優駿〈ゆうしゅん〉)が近づくと、そのことに思いを馳(は)せる。昨年のダービー当日、東京競馬場は約14万人の観客であふれた。この日だけは、馬券の種類や買い方も知らない若者が主役だ。
馬券を当てた客もハズした客も、誰もが興奮し、勝ち馬と騎手の名を叫ぶ。彼らの屈託ない顔を見ながら、私は塩崎利雄の競馬小説『極道記者』を思い浮かべた。地方から移籍したハイセイコーの登場で一大ブームがおきてまもない1976年11月から翌年4月まで東京スポーツに連載された同時進行小説だ。
塩崎は東スポが誇るカリスマ記者だった。予想通りに馬券が的中した有馬記念。「名状しがたい喜びが、うず潮のように体中をかけ巡った。十五万の金が百万円になるという現実的な喜びよりも、競馬記者として、トウショウボーイに◎、テンポイントに○をつけた満足感が、ヒタヒタと押し寄せてきた」
購入金額からして常軌を逸している。しかし読者は、競馬のダークサイドを描く小説に熱狂した。大金を賭け続ける主人公が「こんな毎日を送ってて、俺たちは一体、最後はどうなっちまうんだろう……」と呟(つぶや)く。「しゃあねえ、……そうなりゃ往生するだけサ……二百円券一枚、汗の出るほど握りしめてヨオ……競馬場の金網にへばりついて、声が嗄(か)れるほど怒鳴ったりしてヨ……」と仲間が応じる。いまの競馬場からは失われた空気。阿佐田哲也『麻雀放浪記』(文春文庫1~4・各724~767円、など)に並ぶ悪漢小説(ピカレスクロマン)の金字塔だ。
賭博という言葉を嫌う人はまだ多い。血統や競馬体系の第一人者である山野浩一は『サラブレッドの誕生』(朝日選書=品切れ)で、日本とイギリスの相違点を指摘する。「イギリス人は賭(かけ)のある要素、賭が自由に行われることがデモクラシーを存続する上で必要不可欠なものと認めている」「賭とは未知のものに対してある選択をすることで、その選択の的中に対して金銭的な報酬を得ること、それがシステム化されたものが現代における賭博である」
賭博の本質をここまで深く、明晰(めいせき)に語った文章を知らない。
市井の哲学者
詩人で小説家のチャールズ・ブコウスキーは、開催日には必ずロスの競馬場に通った。50歳を過ぎて大ブレーク、全米一の有名詩人になった男は最晩年の日記『死をポケットに入れて』で、かなりの部分を競馬の記述にあてた。次いで愛猫たちへの言及というのが泣ける。
「競馬場でかすりもしない一日。行きの車の中で、わたしはいつも今日はどの必勝法のお世話になろうかとじっくりと考える」。駄目な日もある。「それでもわたしは競馬場で決して自分を見失ったり、正気をなくしたりすることはない。ただそんなに大金を賭けないだけの話だ。長年貧乏生活を送ったことで、わたしはすっかり用心深くなってしまった」。まるで市井の哲学者を思わせる言葉だ。馬券の買い方は塩崎と異なるが、競馬への熱狂と諦観(ていかん)あわせもつスタンスには共通する匂いがある。
“過剰”な人々
ダービー騎手藤田伸二の『騎手の一分』も危ない気配が魅力たっぷりの一冊。日本中央競馬会(JRA)批判も、実名を出しての騎手への批判も容赦ない。競走馬の美しさと速さが競馬の核だ。しかし馬と一体となってレースを作る、腕達者で肝のすわった騎手抜きで、記憶に残る競馬は生まれない。JRAを2015年に引退した藤田が、地方のホッカイドウ競馬で復帰をめざすという情報が飛び込んだ。嵐を呼ぶ男、再び。
いまや稀少(きしょう)な“過剰”さを持つ人々の手になる本には、なぜ私たちが競馬に魅(ひ)かれるか、その訳が書かれている=朝日新聞2017年5月28日掲載