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「障害と生きること」がひらく共生の風景 稲原美苗さん×國分功一郎さん(前編)

記事:平凡社

イベント会場となったシブヤフォントラボでの國分功一郎さん(左)と稲原美苗さん(右) 撮影=藤原さと
イベント会場となったシブヤフォントラボでの國分功一郎さん(左)と稲原美苗さん(右) 撮影=藤原さと

経験を語り、経験を記述する

國分功一郎(以下、國分):僕はUTCP 共生国際哲学研究センターのメンバーとして、毎年キックオフイベントに参加しています。今日のゲストは稲原美苗さん。神戸大学大学院人間発達環境学研究科の准教授でいらっしゃいます。 

稲原美苗(以下、稲原):私はUTCPでは2012年度特任研究員として活動していました。もうお気づきでしょうが、私は脳性まひによる構音障害がありまして、しゃべるのが一番苦手なんですけど、しゃべることをお仕事にしちゃったっていう(笑)。 

國分:(笑)笑うところですね。

稲原:大学の講義では、パワーポイントを字幕がわりに使っています。以前は合成音声を使っていました。綺麗な音声なのですが、学生さんがいつもこっくりこっくりするんで、今はパワーポイントを使って自分の声で話すことにしています。 

 私は 1972年生まれです。当時は分離教育が主流で、障害がある子はほとんど養護学校と呼ばれていた学校へ行っていました。私は近所の子どもたちと一緒に育ったこともあって、幼稚園から高校まで公立学校に行くことができたのですが、学校で障害のある子どもは私一人だけでした。小学校4年生の時に引っ越した先でいじめられて、自己否定するような気持ちを抱えるようになり、環境が変われば自分も変わるかなと思ってオーストラリアの大学に留学しました。その後、イギリス・ハル大学の博士課程を修了しています。2012年6月から 10カ月間、UTCPで特別研究員をした後に、大阪出身なこともあって大阪大学に移り、今は神戸大学にいます。現在教えているのは、ジェンダー論、フェミニスト現象学、障害の哲学、哲学プラクティス、社会教育などです。

 この『障害を生きることの現象学』は、私の日本語での初めての単著で、涙の考察を導入とした「はじめに」、夫マイキーとの出会いと暮らしを綴ったエッセイを収めた「第1部 経験を語る」、哲学理論を扱った「第2部 経験を記述する」という構成になっています。第2部は、「「心」と「身体」のあいだで」「「自立」と「依存」のあいだで」「ケアという関係の中で」「愛すること、愛されること」の4項で構成されています。 

 私はアテトーゼ型の脳性まひで、身体が不随意に動くことがあって、構音障害があります。夫のマイキーは痙直型脳性まひで、左半身の動きが制限されています。加えて、てんかんと自閉スペクトラム症もあります。二人とも現象学を専門とする哲学者です。

 第1部で私たち夫婦のことを書く時に、エッセイという形式を選んだのは、本当に伝えたかったのは、私の人生を丸ごとではなくて、障害とともに生きるなかで起きた事象をどのように経験し、どのような意味が生まれたのかということだったからです。その場での出来事、つらい涙や悔やみ、愛といった経験に焦点を当て、それらを哲学的に掘り下げることにしました。 

 いちばん書きたかったのは第2部の「愛すること、愛されること」ですね。特にフランスの哲学者リュス・イリガライの 「I love to you」 という表現についてです。もちろん文法的には「I love you」が正しいのですが、目的格を使うので、「私があなたを所有する」という暴力的な表現だなと思うんです。そういう関係ではなく、相手への作用を持ちながら、お互いに向かい合う関係として捉え直していく、わからないまま生きることを大事にしていくという関係でいいのではないでしょうか。愛とはエーリッヒ・フロムが書いたような、完成された、成熟した二者が結びつく関係ではなくて、常に揺らぎ、変化し続ける関係のなかで生成されるものではないか。私は愛をそのように捉えました。その意味で、愛は能動的に愛することだけでも、受動的に愛されることだけでもなくて、自分と他者の間に生じる事象としての中動態的な関係であると考えるのです。障害とともに生きる経験は、このような理想と現実、愛することと愛されることは交差する、揺らぎ続ける関係性を示していると思います。 

 この写真はマイキーとの結婚式で、参列したみなさんにお配りした文章です。人前結婚式だったので、誓い合うのではなく、文章を読み合うというかたちにしたのですが、その時にイリガライのI love to you についての文章を読みました。 

稲原さんがマイキーさんとの結婚式で参列者に配ったイリガライ「I love to you」の一節。
稲原さんがマイキーさんとの結婚式で参列者に配ったイリガライ「I love to you」の一節。

國分:イリガライの本の一節「I love to you」を配ったというのは、前代未聞のかっこいい結婚式ですね(笑)。

「見られる」という経験 

國分:稲原さんの『障害と生きることの現象学』は一気読みしてしまいまして、初めての単著とは思えないほど文章が巧みだと思いました。第1部はまさしく「経験を語る」で、印象的なエピソードが詰め込まれていて、ときどきクスっと笑っちゃうものもありました。第2部は理論的になっていくわけですが、第1部で語られた経験をもっと理論的に掘り下げるかたちでお書きになっているように感じました。

 いちばん最初に取り上げたいのは、視線の問題ですね。つまり、見られる対象であるっていうことの問題です。例えば、弱った身体が見られる対象になるという話が、第1部のエッセイに出てきますよね。

 マイキーの膝が崩れ、身体が前のめりに傾いた。私は反射的に彼の頭を支え、そのまま倒れ込まないよう腕を回した。周囲に目を走らせ、日陰になっている場所を見つけると、彼をそっと木陰へ導き、腰を下ろさせた。(中略)
 周囲の人々は驚き、ざわめきながら、距離を取ったり、声をかけてくれたりした。その視線は、ケーブルカーで感じたものとは異なり、より直接的に、私たちの存在を測ろうとする圧を帯びていた。公共空間において、弱った身体は一瞬で「見られる対象」になる。そこには、誰も意図していなくても、無意識の権力のようなものが立ち上がる。

『障害と生きることの現象学』55ページ

 マイキーさんが崩れた時に、周りの人がハッとして、声をかけてくれる人もいるけれど、ジロジロ見られるという経験もするわけですよね。声をかけてくれるというのは優しさでもあるのかもしれないけれど、そこには「無意識の権力のようなものが立ち上がる」とも書かれている。つまり、「見られる」は、「見てくれている」ということでもあるかもしれないけれども、同時に権力関係もそこに発生する。この両義性が、本の中では繰り返し描かれていると思うんですね。

 これを理論的に扱っているのが、第2部の鏡像段階ですよね。鏡像段階というのは、子どもが発達していく過程で鏡に映った像を自分だと認識するようになる、というジャック・ラカンの理論です。かつては、子どもが鏡を見ていると、ある時、「ああ、これが自分だ」とわかり、そして鏡の像との葛藤が起こる、という説明がされていました。

 でもラカンは大事なことを付け加えていて、この像が自分であるとわかるためには、誰かにそれを指摘してもらわなければならない、というんですね。つまり、「この像があなたなのよ」と周りにいる人が言うことで、初めてその像を自分として認識できる。

 ここに両義性があるわけですよね。「これがあなたなんだよ」と支えてくれる意味もあれば、「お前はこのようなものである」と決めつけてくることにもなりうる。稲原さんの本で「見られる」ことが持つ両義性は、経験としても理論としても重要な点ではないかなと思いながら読みました。 

稲原:小学校の時に引っ越して転校したら、すぐに周りから見られ始めたんです。それまでも自分が「おかしい」「人とはちがう」とわかってはいたんですけど、転校したがために眼差しが痛くなった。今も、特にマイキーと二人で歩いているとすごく目立つんですね。私は首が傾いていて、彼は杖をついて今にも転びそうな歩き方をするので、みんなが見るんです。ただ、見ないようにしている人もいるんです。見ないようにしていても「助けたいな」と思っている人もいるし、イライラしながら見ている人もいる。いろんな眼差しを感じます。

 私は海外生活が長かったとはいえ日本で教育を受けてきたので、視線がすごく気になる。でもマイキーは逆で「(僕を)見ろ見ろ」って言うんですよ(笑)。私は自分が障害者だということに、他者の視線から気づく時があります。だから視線は直線ではなくて、屈折していて。ラカンが考えた鏡像段階の鏡は平らとされていますが、本当の鏡はもっと凸凹していたり、歪んでいたり、三面鏡だったりしていますよね。 

國分:なるほど。鏡像段階の鏡は平らであると想定されているというのは重要な指摘ですね。本当は歪んでいる。

稲原:そう、歪んでいる。

國分:今では鏡像段階について論じなくなってしまったじゃないですか。でも、稲原さんのご著書を読んで、みんながわかった気になっていた論点が掘り起こされたように感じました。

〈後編に続く〉

構成:吉田真美(平凡社編集部)

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