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虹が綺麗ですよ 澤田瞳子

 世の中がこんな形に変化して以来、知らない人に話しかけられる機会が増えた気がする。たとえば他にお客さんのいない宅配便事務所、信号待ちをしている街角。

 「こんな大きな荷物、運ぶの大変だったでしょ」
 「雨、なかなか止(や)みませんね」

 見知らぬ方との世間話は、無論、以前からあった。ただ最近経験するそれは、世間話と呼ぶには大げさすぎる淡さで、「そんなことないですよ」「本当に。肌寒いですね」とでもいう一言で、終わってしまう。それにもかかわらず、つい言葉を交わしてしまうのは、街から人が減り、リアルで誰かと会う機会が激減した今、自分以外の他人とすれ違う機会ひとつひとつを誰もがかけがえなく感じているためかもしれない。

 ところで先日、外出先で少々、腹の立つことに遭遇した。加えてその日は一日じゅう雨との天気予報を裏切って、意外と早く雲が切れ、せっかくの長靴と傘も無駄になってしまった。そんな歩きにくい恰好(かっこう)が、誰かに愚痴るほどでもなく、さりとてすぐに忘れ去るには難しい半端な腹立ちに拍車をかけ、自分の足元だけを見つめて黙々と帰路を急いでいた、その時である。

 向かいからやって来た二人連れの女性が突然、「虹が綺麗(きれい)ですよ」と私に言った。驚いて顔を上げれば、なるほど東の空にくっきりとした虹がかかっている。本当に、と呟(つぶや)いた私に、二人はにっこり笑って、そのまま歩き去った。

 小説家の夏目漱石が「I love you」を「月が綺麗ですね」と訳したという、出典不明の都市伝説がある。ことの真偽はさておき、言葉が時に字面以上の意図を含むことは、誰もが経験的に知っているだろう。俯(うつむ)いて早足で歩く私にかけられた「虹が綺麗ですよ」とて、ただ虹を見せようとしただけではあるまい。小さなやりとりのありがたさが身に迫る今だからこそ、あのお二人のように淡く、それでいて優しい言葉を私も誰かに向けたいと、切に思う。=朝日新聞2020年10月28日掲載