社会問題先取り 人の根底探る
岩波書店によると、國分さんの新書は現在2刷3万2千部。スピノザは西洋哲学の歴史上、デカルトやライプニッツと並び17世紀の合理主義の哲学者とされる。デカルトが残した哲学の根本原理をめぐる著作を徹底して読み込むことを通して、自らの思索を深めた「読む人」という視点で、スピノザの思想をたどる。スピノザ全集の初回配本『3 エチカ』も3刷6千部と、学術書では異例の売れ行きを見せている。岩波文庫のスピノザの主要著作(畠中尚志訳)もこれを機に重版したという。
國分さんは「構想から10年かかって出版にこぎつけた」と新書執筆の苦労を振り返る。スピノザは、國分さんにとって自らの哲学の道しるべとなる存在だ。『暇と退屈の倫理学』(2011年)や『中動態の世界』(17年)などでその思想を手がかりにしてきた。「この10年で読みが深まり、ようやくスピノザの生涯と思想を一本の線、一つの面、一つの歴史小説のような混然一体のものとして描けるようになった」と語る。
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現代日本と縁遠いように見えるスピノザが今なぜ多くの人に読まれるのか。
岩波書店の担当者は「この数年でスピノザの哲学を語る國分さんの熱量が知らず知らず読者に浸透していたのではないか」と見る。気候変動や感染症、人工知能(AI)の進化など人類や文明への信頼が揺らぎ、人が人たるゆえんを根底から探る哲学が必要とされていると分析する。國分さん自身は、スピノザの思想が「今の社会問題を先取りしており、民主主義の限界を乗り越えて鍛え直す足場になりうるからだ」と説明する。
民主主義を鍛え直す 哲学者の問いをともに
「スピノザが意識や個人、自由や国家といった概念を定義しようとするのは、(キリスト教中心の世界観を超えて)実際に生身の人間に自由や人権を与えるためだった。一方で、スピノザは自らが肯定する民主的な国家にも、例えば皆で共有すべき価値観という意味での『宗教』が必要だと論じている」
國分さんによれば「哲学は結論だけを継承してもだめで、哲学者が悩んだ問いを一緒に体験するプロセスが大事」。哲学者が何を言いたいのかを理解しようとして、「哲学者とともに読み、ともに哲学する」営みこそが重要だという。
スピノザが最晩年に取り組んだ著作『国家論』は、民主国家論の冒頭までで未完に終わる。國分さんは「『読む人』スピノザのバトンを受け継ぐのは私たちだ」と考えている。
「自らの著作で『哲学的読者の皆さん』と語りかけるスピノザは、必ずや知的読者に理解が得られるはずだと期待していた。スピノザの哲学は全ての『知りたい人、分かりたい人』に対して開かれている」
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スピノザから國分さんへ。400年近い時空を超えて「読む人」のバトンをつないだ先学の業績を伝える本も出た。
スピノザの全哲学著作を初めて翻訳した畠中尚志(1899~1980)は、脊椎(せきつい)カリエスの病魔に侵されて東京帝国大学を中退した後も、病床で口述筆記を続け、還暦を前に訳業を全うした。畠中訳でスピノザに触れた國分さんは、畠中の娘・美菜子さん(東北大学名誉教授)の協力を得て、昨年末に『畠中尚志全文集』(講談社学術文庫)の出版にこぎつけた。
國分さんは西洋哲学を受容してきた日本の翻訳出版の蓄積を「『読む人』の重層的なリレー」と形容する。畠中訳『神学・政治論』は44年、同『エチカ』は51年の出版で、戦中戦後の激動下で続けられた知的作業の成果だ。「困難な時代、困難な生活の中で極めて高い水準の翻訳を届けてくれた。畠中先生とお会いしたことはなく、翻訳を読んで学んだだけの関係だが、お仕事に学ぶところが非常に大きかった」と強い思いを語る。
スピノザから畠中訳へ。國分さんの新書や新しい全集へ。そして読者へ。「読む人」のリレーは今後も続く。(大内悟史)=朝日新聞2023年3月15日掲載