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何も持たない者の文学としての短歌~『金子文子 獄中のうた――アナーカ・フェミニストの短歌を文学テキストとして読む』

記事:明石書店

大田美和著『金子文子 獄中のうた――アナーカ・フェミニストの短歌を文学テキストとして読む』明石書店、2026年
大田美和著『金子文子 獄中のうた――アナーカ・フェミニストの短歌を文学テキストとして読む』明石書店、2026年

アナキズムブーム到来か

 このところアナキズム関連の文芸が盛んである。多少例をあげるだけでも、2022年には高島鈴『布団の中から蜂起せよ――アナーカ・フェミニズムのための断章』(人文書院)が刊行され、2025年にはアレックス・プリチャード『アナキズム――新たな社会関係を創り出す』(小田透訳、白水社)が翻訳された。とくに女性のアナキストの再評価が進んでおり、パフォーミングアーツではストリッパーの氷上アクアが演じる伊藤野枝の演目が人気を博しており、今年の2月には浜野佐知監督の映画『金子文子 何が私をこうさせたか』が公開され、関連書として監督が編集した『国家に喧嘩を売る女 金子文子――映画『金子文子 何が私をこうさせたか』』(皓星社)も刊行された。

 本書『金子文子 獄中のうた』も、そうした流れの中で金子文子の再評価を促すものである。帯には高島鈴の推薦文があり、映画『金子文子 何が私をこうさせたか』の写真も使われているので、明らかに現在の金子文子再評価の文脈の中に位置づけるべき著作だ。これまであまり文学的なテクストとして見なされておらず、史料として扱われていた金子文子の短歌を文学研究の対象にするというコンセプトで書かれており(p. 15)、政治思想家であるとともに歌人であった金子文子像を浮かび上がらせようとする意欲作である。カバーの裏に印刷されているように、文子は「燃え出づる心をこそは愛で給へ歌的價値を探し給ふな」という文学的評価を否定するかのようなあまのじゃくな歌を作っているが、著者で歌人・英文学者である大田美和が述べているように、文学的評価を拒絶している著者の作品であっても文学的な研究の対象にならないというわけではなく(p. 28)、むしろそうした天使も怖れて足を踏み入れない場所まで踏み込んでいくのが研究者や批評家の仕事である。この本は研究者の本分として、まことを尽くして著者がしてほしくなかったことを行う、ある意味では少々居心地が悪いが誠実な研究である。

文学研究の困難さ

 本書が示しているように、これまで文学的な分析をあまり受けてこなかった作品を文学の観点から分析するのはなかなか困難なプロセスである。まずはどのテクストを使用するか決めなければならないが、文子の書いたものは本文批評上の問題がある。文子は刑務所内で執筆していたため、自筆原稿が宅下げされた際は官憲の検閲による黒塗りばかりで、さらに夭逝しているため本人の監督のもとで刊行を行うことができなかった。発禁になったり、原稿の一部が行方不明になったりするなど、テクストを精査する上で無視できないさまざまな問題も発生している。さらに文子の書いたものを保存・刊行することに尽力した栗原一男がかかわっているものも含めて編集にいささか不注意とも言えるところがある刊行物もあり、著者が「アナキストたちは、記録をできるだけ正確に残すことに、あまり関心がないようだ」(p. 40)と音を上げているほどテクストの来歴が混乱している。

 こうした困難を乗り越えて本書は文子の短歌を精読・分析している。短歌を文子の個人的経験や心情の吐露としてとらえ、そこに含まれている感情の動きなどを論じるという文学的な分析が主に行われている。ユーモアや優しさが感じられる歌もあるが、人を食ったような内容の歌もある。収監中の文子は短歌を用いて囚人に対する苛烈な虐待を告発しており、いくつかショッキングな内容の歌も作っている。

 意外なところで歴史学的な発見もある。著者も述べているように、文子は日本の刑務所において公式に革手錠の導入が決定される前に革手錠で拘束された経験を歌っており、これは「貴重な資料」(p. 250)と見なすことができる。さらに著者は文子の最晩年の短歌がどうやって刑務所の外に持ち出されたのかについても推測を行っている。短歌はその名の通り短いため、暗唱によって持ち出された可能性があることを指摘しており、これは一考に値する推測である(p. 246)。

四谷警察署で撮影された金子文子(ウィキメディア・コモンズより)
四谷警察署で撮影された金子文子(ウィキメディア・コモンズより)

(ウィキメディア・コモンズ)

文子の短歌の世界

 本書を読んで感じられるのは、短歌というものがこの時代はまさに何も持たない者の文学であり、アナキストにふさわしい表現形態であったのだろうということである。日本の国語教育には短歌や俳句が含まれているため、日本で小学校や中学校に通った人の多くは短歌や俳句を習い、自分でも作ってみるように言われた経験があると思われるが、こうしたリズムのある短い詩は少し慣れれば子どもでも作って楽しめるようになる、ハードルの低い文芸創作である。さらに暗唱しやすく、人に伝えやすい。文子のようにあまり恵まれない環境で育ち、向学心はあっても思うように教育を受けられなかった女性にとっては、短歌を自由な表現手段として用いるのは自然なことであっただろう。

 文子の短歌において興味深いのは、他の女性に対して自分が向けるまなざしを自己批判する視点があるところだ。第7章では獄中で他の女囚たちとの暮らしを詠んだ短歌が分析されている。この中には、「窃盗は恥には非ずなど云ひつひそかに覺ゆる蔑みの心」というように、盗みで捕まった女囚に対してそんなことは恥ずかしくないと口では言ったが内心ではどうも軽蔑心を抱いてしまった……という心情を吐露するものがある。アナキストであれば、貧しい者が他人の私有財産を盗んだことを咎めるような気持ちを抱くのは良くないはずであるが、そうした心がけを徹底できないことに対する「差別意識」(p. 226)に対する自覚が感じられる。さらに「浴みする女囚の乳のふくらみに瞳そらしぬなやましさ覺えて」という歌はかなり生々しい内容であり、版によって「乳」が「肌」になっているものもあるそうで「編集部が自己規制した」可能性もあるようだ(p. 227)。この歌は閉じ込められている女性間で生じるある意味ではエロティックとも言える感情を正直に歌った歌であり、クィアな読みも可能であると思われる一方、語り手としては他の女性の身体に対して性的なまなざしを向けるのは相手の女性に対して極めて無礼なことでもあり、あまり認めたくないことであろう。大田は文子が女囚たちに向けるまなざしを「優しい思いやりに満ちたもの」(p. 234)とまとめているが、稀に出現するこうした思いやりでは救いきれない複雑な後悔や迷いの感情に文子の正直さがあると言えるかもしれない。

 本書は労作であるが、金子文子の著作を文学テクストとして読むという研究は緒に就いたばかりであると思われる。短歌以外の著作についてもこの種の研究が可能であるかもしれない。今後もこの種の研究が多く刊行され、さらにそれが大衆文化にもフィードバックされて新たな表現が生まれることを期待したい。

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