今年、没後35年を迎えた寺山修司の特別展が、11月25日(日)まで横浜市の神奈川近代文学館で開催されています。寺山は、自ら「職業・寺山修司」と名乗ったように、幅広い分野で従来の枠を超える表現活動を展開し、世間の注目を集めてきました。今回は、ブックデザイナー・祖父江慎さんが手がけた斬新な展示方法もあり、見応えある内容になっています。この展示を、若手歌人の小島なおさんが、改めて評価の高まっている歌人としての寺山の横顔に注目しながら観覧。歌人・寺山の魅力について寄稿してくれました。
ブックデザイナー・祖父江慎が会場に施した寺山の「言葉」
四十七年の生涯を通じて、あらゆる「型」を疑い、破っていった寺山修司。故郷を、家族を、私性を、舞台を「はみだしてゆく」こと。神奈川近代文学館「寺山修司展」は、彼の模索し続けた実験的な試みに通じるあらゆる仕掛けが施されている。
文学館入口へ続くスロープの脇に立つ円柱。ひとつめの柱に「失いし」という言葉が書かれている。二つ目の柱には「言葉がみんな」、三つ目には「生きるとき」。そうして柱を辿って言葉を繋げていくと短歌になる。
失いし 言葉がみんな 生きるとき 夕焼けており 種子も破片も
初期歌篇『十五才』の一首。 失った言葉、とはなんだろう。言えないままに過ぎていった言葉なのか、それともかつて口にしたことで永久に過去のものとなってしまった言葉なのか。そうした今は亡き言葉の数々を思うとき、種子も破片(硝子だろうか)も、まるでその言葉のメタファーのように地平線に失われゆく夕光に照らされている。そんなイメージを持った。
入口の自動ドア。寺山自筆の文字を印刷したという几帳面そうな文字が、ドアの硝子に書かれた原稿用紙のマス目に収まっている。
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかけて
完全な死体になるのである
そのときには
できるだけ新しい靴下をはいていることにしよう
零を発見した
古代インドのことでも思いうかべて
「完全な」ものなど存在しないのさ
よく見ようと思って近づくと、自動ドアが開いて文字が見えなくなってしまう。こんな演出もいかにも寺山風。
俳人、歌人、脚本家、小説家、劇作家、映画監督、作詞家、競馬評論家等々。その多岐にわたる仕事を順に追う形で、資料が展示される。寺山の秘書兼マネージャーをつとめた田中未知氏が長年収集・管理をしてきたという資料の数々に埋め尽くされた展示室は、まるで空間そのものがひとつのインスタレーションだ。これ以上詳しく説明すると実験の種明かしをするみたいでナンセンスなので、ぜひ足を運んで確かめてもらいたい。
寺山修司を知ったのは十代の終わり頃。初めての出合いはやはり短歌だった。これまで読んだことのあるどの短歌にも似ていない、目眩のするような青春性と劇的な世界観に惹かれて、模倣した短歌をいくつも作った。今回の展示をきっかけに、改めてその魅力と今なお色褪せないあたらしさについて考えてみる。
キャッチーで、思わず使ってみたくなるフレーズ
そら豆の殻一せいに鳴る夕母につながるわれのソネット
草の笛吹くを切なく聞きており告白以前の愛とは何ぞ
間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子
古着屋の古着のなかに失踪しさよなら三角また来て四角
人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ
寺山修司の短歌はたのしい。たとえば一首目。「ソネット」はヨーロッパの十四行詩のこと。一面に広がる空豆畑に風が吹く。すると実りの時期を迎えて膨らんだ空豆の殻がしゃらしゃらと鳴り渡った。あたりから聞こえてくるその緑色の音に囲まれて、自分の書く詩は遠く、近く、たったひとりの母親に繋がっているのだろう、と一首を解釈してみる。あるいは分厚い殻とその中に敷かれた白く柔らかい綿に包まれる空豆を、母と子の関係性の喩ととる人もいるかもしれない。いくらでも想像のしようがある。けれど、意味を深く考えなくても、まずは「母につながるわれのソネット」というフレーズを楽しめばいいと思う。一首が何を言っているのか、どういう気持ちが込められているのか。寺山の短歌は、そういった事柄よりも五音と七音の定型詩のひびきを、短歌を愛誦する喜びを与えてくれる。寺山の短歌はフレーズの宝庫である。「告白以前の愛」「学校地獄」「人生はただ一問の質問にすぎぬ」。どれもキャッチ―で、思わずどこかで使ってみたいと思わせるのだ。「さよなら三角また来て四角」なんて、きっと無意味だからこそこんなにもあざやかに耳に残るのだろう。
自分以外の人生を、短歌の中で生きる
新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥
地平線縫ひ閉ぢむため針箱に姉がかくしておきし絹針
亡き母の真赤な櫛で梳きやれば山鳩の羽毛抜けやまぬなり
子守唄義歯もて唄ひくれし母死して炉辺に義歯をのこせり
おとうとの義肢作らむと伐りて来しどの桜木も桜のにほひ
寺山は人間を詠う歌人であった。しかしここに出てくる家族は架空の家族である。寺山は一人っ子で兄弟がいたという記録は残っていないし、実際の母は寺山本人よりも長生きしている。ならば、短歌のなかに登場する「おとうと」「姉」「母」、そして物語る「自分」は一体だれなのか。
自分以外の誰かに成り代わること。自分以外の人生を短歌のなかで生きること。「虚構」と呼ばれる手法が近代短歌に本格的に持ち込まれたのは前衛短歌運動という戦後のあたらしい文学を志したムーブメントのただなかのこと。寺山はその運動を牽引するひとりであった。他のだれでもない「私」であることの固有性を大事にした近代短歌にとって、真逆ともとれるそのアプローチは革新的なものだった。
ささやかな、取るに足らない「私」。何者でもない「私」の日々や思いの告白が作品になるというのは短歌の特殊な点である。表面的には見えてこないこの世界に横たわる謎のようなもの。あらゆる存在の核のようなもの。共有可能な論理では届くことのない深さへ手を伸ばすことが、短歌の目的のひとつと言える。そのためにはものすごく小さく、偏った、たった一個の強烈な眼差しで世界を見つめるという方法が長く有効とされてきた。
短歌は告白を定型というかたちで制限します。制限されると告白は堕落します。
告白するということは道徳への弱い潔癖がなすものだから韻律の秩序と歌の自発性を意識するかぎりそれは偽善に終ると思われます。
これは寺山が編集者中井英夫へ宛てた手紙からの引用。当時十八歳。「私」の束縛を解くこと。匿名のだれかに成りきること。一見、対照的な手法でありながら、それこそが寺山にとって核に触れるための確かな道だったのかもしれない。この若きアンチテーゼが果たしてどれほどの影響を歌壇へもたらし、現在に引き継がれているかを正確に把握するのは難しい。けれど、現代短歌において私たちが「短歌のなかの私≠作者」という考えを当然のように持ち得るのは、前衛短歌運動の耕した肥沃な土壌のおかげだろう。
ちなみに本展示では、中井英夫と寺山の間で交わされた手紙や、中井英夫が編集の手入れをしたという寺山の歌壇デビュー作「チエホフ祭」五十首の詠草も見ることができる。落とす歌、すなわち駄目な歌として、一首に被せるように大きく書かれたいくつもの赤ペンの×印を、寺山はどんな思いで受け止めたのだろう。残された手紙や詠草のやり取りを見るにつけ、前のめりの矜持溢れる言葉とは裏腹に病弱だった自身への焦りや過剰な気負いもひしひしと感じられて興味深い。
永遠に答えの出ない問いを投げかけて
海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり
海を知らない少女の前で、両手を広げる「われ」。場面から想像するに「われ」は少女と同じ年くらいか、ほんのすこし年上の少年。なぜこの少年は両手を広げているのか。多くの人は、海を知っている少年が「海というのはこんなに大きいんだ」とその大きさをジェスチャーしている、と読むだろう。けれど、一方で海を「外の世界」の比喩とすれば、まだ〈この場所〉しか知らない少女が、成長して外の世界を知ろうとしているのを阻止しようと少年が通せんぼをしている場面と読むことも可能なのだ。幼い恋の屈折した心理ということになる。短歌に絶対の答えはない。
寺山は常に自分に、相手に、その作品を通じて問いを投げかけている。〈失った言葉とは〉〈告白以前の愛とは〉〈ただ一問にすぎない人生とは〉。永遠に答えのでることのないあらゆる問いについて、持ち得る限りの想像力を使って対峙すること。それこそが自分という型から自分をはみださせる唯一の態度なのかもしれない。
寺山は生前、亀を二匹飼っていたことがあるという。名前は「質問」と「答」。私はこのエピソードがとても好きだ。
*文中の引用はすべて思潮社『寺山修司コレクション 全歌集全句集 1』による。