本を読んでいると、頭のどこかで栓がぽんっと抜けるような言葉に出会うことがある。
いつからそこにあった栓なのか、誰が締めた栓だったのかは知らない。ひょっとすると、自分でぎりぎり締め続けてきた栓なのかも知れない。
例えば、大正時代のアナキスト、金子文子の自伝『何が私をこうさせたか』には、両親に捨てられ、預けられた祖母にも虐待されてこれでもかというほど過酷な日常を生きていた十三歳の文子が、自殺を思いとどまる場面がある。いま、まさに川に飛び込もうとする瞬間、彼女は蝉(せみ)の声でふと我に返る。
「けれど、けれど、世にはまだ愛すべきものが無数にある。美しいものが無数にある。私の住む世界も祖母や叔母の家ばかりとは限らない。世界は広い」
世界は広い。
オルタナティヴはある、のだ。
ここしかないはずがないし、この道しかないわけがない。栓を締め回したら脳は酸欠状態になる。
変えるのは自分
チャールズ・ブコウスキーの『ポスト・オフィス』は、競馬と女と酒まみれの無為な日々を送る郵便配達員が主人公だ。最も自伝的要素が強いと言われるこの作品は、実はブコウスキーが初めて書いた長編小説だった。が、残念ながら日本では品切れになっているという。ぜひ増刷して欲しいものだが、非常に簡単な英語で書かれた原書で読むこともお勧めしたい。
(原書では)この小説の白眉(はくび)はラストの三行だ。主人公の出口のない閉塞(へいそく)した日常を淡々と描いた小説が、何の伏線も前触れもなく、いきなり最終部でオルタナティヴへの扉を蹴破ってみせる。
「朝だ、それは朝だった。俺はまだ生きていた。小説でも書いてやるか、と思った。そして俺はそうした」(ブレイディ訳)
労働者はいつまでも末端で小突き回されるしかないわけがない。誰かが世の中を変えるまで待っていても何も変わらない。終わりなきファックな日常を終わらすのは自分自身だ。わたしたちに必要なのは頭の中の栓を抜く言葉なのだ。
それなのに道を踏み外すことばかり恐れるから、栓は知らぬ間にどんどん締まっていく。
坂口安吾は「生きよ堕(お)ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか」と『堕落論』で書いた。
「堕落」なんて物々しい、と思うかもしれない。が、彼はこんなことも言っている。
「堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している」(「続堕落論」)。
迷子に見えても
大勢が歩く道から外れたら、人は独りになる。大勢の側から見れば、あなたは失われている。彼らからすれば、あなたは迷子になっているように見えるだろう。失われることと迷うこと、この表裏一体の事象の深さと豊かさを考察したレベッカ・ソルニットの『迷うことについて』にはこんな言葉が出てくる。
「意識を研ぎ澄ませる訓練をしていくと、そうあって欲しいとわたしたちが思っている世のなかの道理よりもっと下のほうへ降りることができるようになり、驚くほど魅力的な世界がみえてきます」
サンフランシスコ・ゼン・センターで著者が聞いたこの台詞(せりふ)は、言葉が頭の中の栓を抜く瞬間を的確に言い表している。
不安で不確実な時代に生きる人は物事に正確な答えを求め、コントロールしようとする。けっして迷わないように、道を間違うことがないようにする。
生きづらさや息苦しさの原因は、ほんとうはそんなところにあるのではないだろうか。
二十代、三十代にもなれば頭の中にたくさんの栓がある。錆びついているのもある。それらは何者かに開かれる瞬間をじっと息を潜めて待ってはいないだろうか。
本には、それができます。
あなたの住む世界はここだけとは限らない。世界は広い。=朝日新聞2019年8月31日掲載