クマ被害全国最多の秋田県の実態と先進的な取り組みを取材――『ルポ クマ襲撃――被害最多県 秋田の現場から』
記事:平凡社
記事:平凡社
ドアを開けて家を出ると、目の前に真っ黒いクマがいて、吠えながら一気に自分に突進してきた。
「あ、やられる!」。視界が真っ暗になる――。
そこではっと目が覚めた。
そんな夢を何度も見て、不安が毎日のようにわいてきた。
11月の朝方、「サイレンが騒がしい」と思って玄関のドアを開けたら、自宅の近くにクマが出たため、パトカーが巡回していた。
これらは秋田県庁に徒歩で行ける距離の中心市街地に住む筆者が、2025年秋に経験したことだ。
朝5時ごろ、自宅の前に「チリン、チリン」と響く鈴の音で目が覚める。新聞配達員がクマを寄せつけないように鈴を鳴らしながら各戸に配達するため、その音は静かな街に広く響き渡る。毎朝目覚まし時計で起こされるように目が覚めてしまい、そこで眠りが浅くなって昼間になっても頭がもうろうとすることがあった。
「近所の人もその音で目を覚ましているのではないか」。
「自分が新聞を購読し、自宅に配達してもらうことが、近所の迷惑になってしまうのではないか」。
新聞記者としては、とてもつらいことだった。
この時いつも気にかかったのは、クマがいつ出るかわからない中で外を歩く新聞配達や郵便、宅配便配送に携わる人、また山林の近くで仕事をする人たちの安全だ。
新聞配達の時間帯はクマが動き始める時間に重なる。配達中に偶然クマと鉢合わせになり、襲われてしまった例はいくつもある。鈴をつければその金属音を長時間耳にすることになり、つけて歩く人も我慢が必要だ。普段の配達がクマによって心身の危険にさらされる日常。このため秋田の山あいではクマから身を守るため、車による配達も珍しくない。
筆者にとってもこの時期、夜や朝の暗闇の中のごみ出し作業が不安に変わってしまった。近くでクマが出没したことがスマホのアプリでわかると、暗い時間帯は避け、明るい時間に出すようにした。どうしても夜間に捨てる必要がある場合は、ヘルメットをかぶってドアを開けてダッシュして捨て、急いで玄関に引き返す。
秋田市中心部の街の中をクマが歩き回る。こうした予想もしなかった状況が2025年に現実のものとなった。この年は山にあるブナの実などのえさが不足し、人口減少によって山里に住む人がまばらになったことで、えさを求めるクマが大量に出没した。秋田県では2025年度に人的被害が、全国の都道府県で最多の67人(うち4人が死亡)となった。隣の岩手県(40人が負傷、うち5人が死亡)とともに、クマによる被害が全国で最も多い。福島県が24人と続き、東北6県が全体の6割超を占め、「災害級」と言われた。2025年の1年を表す漢字は「熊」だった。この時の大量出没の影響もあって、2026年に入ってもクマの人里や市街地での出没が収まっていない。
秋田県では2025年に知事が交代し、少しでも人口減少を食い止めようと、魅力を増やすためのマーケティングや、観光振興策を本格化させていた。だが、クマの大量出没はこうした努力をすべて吹き飛ばすほどの影響を及ぼした。まずは人を襲うクマが街に出てくるのを抑え込み、生活の安全が確保されなければどんな特色ある政策を打ち出しても、その効果が一気に失われてしまう。
クマの出没は住民に恐怖をもたらしただけでなく、経済や観光もコロナ禍のような大きなマイナスとなった。県内のホテルはキャンセルが相次ぎ、学校でも休校、集団の登下校といった対応を余儀なくされた。「秋田=クマが怖い」といったイメージが広がり、登山や山菜採りで山に入る人はさらに減った。クマは近年、農作物や人里の木の実の美味を急速に学習したことで市街地の近郊にとどまるようになり、山奥に戻ろうとしなくなった、あるいは人の姿を見てもなかなか逃げない、といった見方もある。
ある秋田のベテラン政治家から「人口減少が続く日本では、このままではこうした現実は秋田だけでなく、いずれは東京都心でも起きるだろう」と聞かされた。実際に東京都の多摩地域や埼玉県などでもこうしたクマの出没情報が相次いでいる。2026年には、仙台市や宇都宮市、神戸市などでもクマが出没した。クマは絶えず学習を繰り返しており、このまま効果的な対策がなければ、いずれ関東や関西の住宅密集地でも人が襲われる事態になりかねない。
筆者はクマの生態を専門にする研究者というよりは一取材者だ。秋田で過ごすうちに、クマの人身被害の続発や社会的な影響の大きさから、数年がかりの取材を続けることになった。また関係者の話をより深く理解したいと思い、狩猟免許取得の勉強もし、試験を受けた。
何人もの被害者に会い、襲われた時の状況や思いを聞くにつれて、「こうした心身の傷を、さまざまなつらい経験を無駄にしてはいけない。起きたことを記録し、この先の教訓にしなくてはいけない」と思うようになった。
本書では、時事的なテーマを追う取材者の視点で、近年多くの死傷者が出てしまった秋田の現場で何が起き、どんな被害が出たのかを改めて振り返ってみた。これまでにどんな対策が打ち出され、どんな留意点があるのかを取材で知り得た限りまとめてみた。クマに関する書籍は専門家によるものが多くあるが、ジャーナリズムや防災、社会的な影響により重点を置いたつもりだ。
クマは日本では北海道に生息するヒグマと本州や四国に生息するツキノワグマの2種類がいるが、本書は主に秋田に生息し、その身軽さや動きの速さから「ヒグマとはまた違う恐ろしさがある」とも言われるツキノワグマについてまとめた。
残念ながら日本で人口減少が続く限り、クマはえさを求めてさらに人里や市街地に入り込む。以前より私たちの生活に接近してきており、その遭遇リスクは人々により近いものになっている。これからクマが多く出没する地域で生活する人には、「クマリテラシー」がさらに必要になるだろう。
痛ましい被害を少しでも回避するために個々でできること、心がけるべきことは何か。本書が少しでもその参考になれば幸いだ。
(構成=平凡社新書編集部)
はじめに——クマが街を歩き回る日常
序章 ツキノワグマについて知る
第1章 街に現れたクマ
第2章 2025年の大量出没に至る背景
第3章 「クマ襲撃」を振り返る
第4章 進化する「クマ対策」
第5章 クマから身を守るために
おわりに——クマ取材でわかってきたこと、伝えたいこと