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クマと人間の距離 野生とは何か、知ることから 服部文祥

車道に下りてきたヒグマ=2022年、北海道斜里町

 クマと人間、お互いにとって不幸な事故が報道されている。人間を害する力を持つ野生と共生する方法についての意見対立は社会問題にまでなっている。

 一見単純に見える野生と人間の衝突は、環境や生活形態の変化、気象変動など様々な要因が絡み合った複雑な事象のようだ。山崎晃司ツキノワグマ すぐそこにいる野生動物』は日本という独特の環境に生きるツキノワグマの生態と現状を紹介し、人間とクマが衝突を回避しつつ、共存する方法を探る。

 ツキノワグマが個体数を増やし、生息域を拡大している地域は、世界を見渡しても本州だけらしい。九州では絶滅し、四国やユーラシア大陸でも絶滅の危機に瀕(ひん)している。山岳地帯が多い本州という環境に、狩猟圧の低下、山村の過疎化などが重なって、クマの個体数は増加した。これにドングリの不作などの要素が加わると、人の生活圏に下りてくるクマが増える。高齢化と人口減少に関して日本は先進国である。世界の人口が減り始めたら、同じ現象が各地に起こるのか。共生を目指す日本の取り組みは未来への試金石といえる。

「人喰い」は特別

 学術的な観察、調査、検証から、ツキノワグマもヒグマも人を殺傷する能力を持つ大型哺乳類には違いないが、好んで人を襲う動物ではないことがわかっている。一方、中山茂大神々の復讐(ふくしゅう) 人喰(く)いヒグマたちの北海道開拓史』は一部のヒグマに出現した凶暴性に着目する。本書は、明治期以降に新聞記事に掲載されたヒグマによる人身事故記録を北海道の開拓史と比べつつ、地理的な分布や変動を検証したものだ。現代の本州はクマが人里に下りているが、開拓期の北海道では人がヒグマの住処(すみか)の森林や原野に侵入して、衝突が起きた。本書は、ヒグマによる人身被害を「排除(驚いたクマの攻撃)」と「食害(食べ物と認識した採餌〈さいじ〉)」に大きくわける。明らかに食べるために襲った被害は、人間の感情を激しく揺さぶるがゆえに、形を変えて繰り返し語られ、強調されてきた傾向があるようだ。記録を子細に調べることでクマの食害が重複している可能性を指摘し、人喰いグマは棲息(せいそく)個体の0・05%ほどの特別な存在だと分析する。

脳内は人と同じ

 テンプル・グランディンら動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』は一風変わった哺乳類の生態学書だ。人間側の観察した視点ではなく、動物の内側の目線から、動物の感覚や行動を解説する。動物科学者でもあり自閉スペクトラム症でもあるグランディンは、幼い頃から動物に囲まれて暮らしてきた。自閉スペクトラム症は、大脳新皮質より、皮質下の動物脳を使って感じたり考えたりするため、動物の感覚がわかるという。

 人間以外の動物は抽象化や一般化が苦手で、思考は映像でおこなうという。捕食動物の採餌行動に関して本書では犬を取り上げて説明する。〈犬はウッドチャック(大型のリス)の殺し方を生まれながらに知っていても、それが餌だということは、生まれながらに知っているのではない。(中略)ほかの犬から学ばねばならない〉

 捕食動物が獲物を襲うとき、脳内で怒りの感情が作動していないことが脳の研究でわかっている。そこにある感情は、自分が欲しいものを探し出して得る喜びであり、その部分は人を襲うクマも買い物をする人間も変わらない。

 現代人は、これまで暮らしてきた自然環境を離れ、人間社会というあたかも独立した生活圏の中だけに閉じこもっているように見える。だが、野生と人間社会の間にはバリアも境界線もない。野生と共に生きていく最初で最大の一歩は、野生とは何かを知ることではないかと思う。=朝日新聞2023年12月16日掲載