規範と差別の関係について ──「さす九」という言葉から(後篇)
記事:春秋社
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前篇では、「さす九」という新しい言葉を知ることで、以前にはそれとして見えていなかったものが、まさに「さす九」的な事態として識別され見えてくるようになった、という経験談を紹介した。そしてそれは、私の本『規範と人間』で示した「規範は人間のものごとの見え方やふるまい方(知覚と行為)を規定する」という基本構図から、新しい言葉・概念(規範)の理解・習得による「ものごとの見え方」の変化として説明できるだろうと述べた。
また、この言葉が世間にそれなりに受け入れられたのは、おそらく「自分たちが薄々感じとっていたことをうまく言い当ててくれる言葉だ」と受けとめた人たちが一定数いたからだ。このように「さす九」という言葉は、既存の男尊女卑的なジェンダー規範に皮肉を込めて抵抗するといった意義も帯び得るわけだが、その一方で、九州地方の人々に対する別種の偏見や差別を助長しかねないという懸念もあるのだった。こうしたことに関して、私の議論からは何を言えるだろうか。
私の今回の本『規範と人間』には、一つの大きな限界(より正確に言えば、問題設定上の制約)がある。それは、個々の規範の内容的な善し悪しや妥当性については論じない、という点だ。そもそも私がこの本で何を目指したかと言うと、上述した「規範は人間の知覚・行為を規定する」という見通しの下、当の規範の働き方(またそれと相関関係にある規範の理解の仕方)を詳細に解明することだった。自分としてはこの課題にはしっかりと答えたつもりだが、他方、「規範」をテーマとする本に多くの人が期待しそうな、個々の規範の内容の善し悪しやその基準といった問題は直接的には論じなかった。
社会的な差別や偏見とは、言わば、その内容が不適切で妥当性がないにもかかわらず世間で通用してしまっているような規範の一種だろう。だとすると、規範の内容的な是非を論じない私の本からは、(ジェンダーに関するものであれ地域に関するものであれ)世の中の差別については何も語れないことになってしまいそうだ。確かに、内容の善し悪しに関してはその通りなのかもしれない。ただ、本で提示した「規範の強制力の根拠」に関する哲学的考察から、差別(という望ましくない規範)が生じてしまうそもそもの構造を説明することは可能であり、そこから一定の示唆が得られるのではないかとも思っている。
規範が強制力を発揮し得るための条件として私が最も重要だと考えるのは、当の規範が一定範囲の人々(それを「われわれ」と呼ぼう)の間で共有されていると当然のように期待されてしまっている、というものだ。「われわれ」のなかに男尊女卑的な言動をなす人やそれを甘受する人がいるのは、もちろん個々人の人柄・性格も無関係ではないが、そうしたジェンダー規範が「われわれ」の間で共有されていると当然視されてしまっていることが大きいのではないか。この種の規範が、諸々の規範の総体としての「常識」の一部となっている場合には、特に疑われなくなってしまうだろう。そして、そのように意識されずに従われているときにこそ、規範はその強制力を最も首尾よく発揮できている。
そこでさらに興味深いのは、私たちは「同じ規範・常識の共有」をあてにできる人たちのことをまさに「われわれ」だと見なす傾向にある、という点だ。私たちは、気がついた時にはすでに一定の規範を共有する「われわれ」の一員だったのであり、その意味で規範の共有と「われわれ」意識の成立は表裏一体なのだと思われる。またそれは同時に、共有された規範から逸脱してふるまう人・ふるまいそうな人は、「われわれ」の一員とは見なされなくなる(少なくとも周縁的な立場に追いやられる)ということでもある。そもそも規範には「何かをそれ以外のものから区別・識別可能にする」という働きがあるわけだが、それは時に誰かを「われわれ」から区別するものとしても機能し、場合によってはその排除や差別にもつながり得る。
ここで特に注意すべきは、規範には、その働き方や共有のされ方において「われわれ」と「それ以外の人々」を区別(さらには分断)する傾向が、本質的に備わっているという点だ。言語(という規範)の共有がその最たる例だろう。同じ日本語を共有する人々の間ではスムーズな意思疎通が可能で、それによってますます「われわれ」となっていくことができる一方で、共有しない人々にはそこに参入することが難しい。規範は何であれ「われわれ」の間で共有されることにおいてはじめて機能し得るが、他方、それを共有する人々こそが「われわれ」となるのでもあり、そこには必然的に「それ以外の人々」との区別が生じる。
また、ある規範が多くの人に共有されているという事実は、その内容的な妥当性を必ずしも保証するわけではない、という点にも注意したい。「エスカレーターの片側を空けておく」というあまり望ましくないマナー(規範)は、世間で今なお広く通用してしまっている。そして場合によっては、その類の規範が社会の多数派への同調圧力として働き、「普通」とされるものへの順応が強いられることもおおいにある。
──しかし私の考えでは、一定の規範の下で知覚し行為する主体であることこそが、「人間的である」ことの本質なのだった(そう言える論拠は本の方で確かめてほしい)。「何かをそれ以外のものから区別する」という規範の本質的な働きが、差別を生みだすそもそもの構造的な原因になっているのだとしても、私たちが「人間」である以上、自身の本質である「規範」を全面的に放棄するのはそもそも不可能だ。それは要するに、差別の発生は私たち人間にとって不可避だということだ。だとすると、私の議論から差別について言えることは、基本的にネガティブなことしかないように見える。前篇で指摘した「差別に対抗する言説が別種の差別を招く可能性」も、結局は規範を本質とする人間のあり方に基づくのだろう。
ただ、ここでさらに注意してほしいのは、規範は自然法則とは異なって、その内容を変えることができるという点だ。私たち人間は、差別発生の原因でもある規範を全面的に捨て去ることはできないが、個々の個別的な規範に関してであれば、その内容を言挙げして問題化したり(「さす九」もその一例となる)、敢えて背いたりすることで(それも一つの従い方だろう)、当の規範を多少なりとも変化・変容させられるはずだ。規範がその強制力を発揮できるのは、「われわれ」が当の規範を共同的に形成・理解・遵守・維持・調整するといった仕方で、人間側が規範の存立に関与しているからでもある。それゆえ、「われわれ」の規範理解やその従い方が変化し得るものであるならば、当の規範自体も変容し得るということになる。
要するに、既存の差別を一挙に解消・解決できるような便利で万能な「正しい」理論や方法があるわけではない(そうしたものがあったらいいなと思い、そうだとされるものに頼りたくなるのもまた、すぐれて「人間的」ではあるものの)。私たちにできること・した方がよいことは、以上のような規範の働き方・人間自身のあり方を前提とした上で、個々の場面で作用している個別的な規範の内容・働き方やその経緯・背景を丁寧に吟味し直すことであり、また、その成果に基づいて異なる見解の人々との対話を試みることなのではないか。そしてそれを通じてこそ、多少なりともよりまっとうな規範を共有する「われわれ」に改めてなることができるのだと考える。今の私たち自身もこうした営為の積み重ねの結果として現にかくあるのだとも思うが、私の本は、規範をめぐるこの一連の営為の「前提」の部分を解明しようとするものなのだった。