1. じんぶん堂TOP
  2. 文化・芸術
  3. 台湾社会とことばと翻訳――朱和之『風の神のいたずら』翻訳によせて(後編)

台湾社会とことばと翻訳――朱和之『風の神のいたずら』翻訳によせて(後編)

記事:春秋社

朱和之『風の神のいたずら』前野清太朗訳と〈アジア文芸ライブラリー〉シリーズ
朱和之『風の神のいたずら』前野清太朗訳と〈アジア文芸ライブラリー〉シリーズ

前編はこちら

多言語な世界の人々

 小説に出てくる台湾出身者たちはいずれも多言語話者である。主人公は台湾語、日本語、フランス語、そして中国語(標準中国語)を操ってみせる。実際の江文也は更に英語も操れたという。何とも凄い話だが、この言語能力の高さは、一面で当時の台湾の知的エリートが置かれた状況を反映している。小説のなかで語られているように「二重の植民地」――西洋の知の影響下にある日本のそのまた支配下にある――で、彼らは知的なよりどころを方々の世界で探さざるをえなかったのだ。

 ただ別の一面では、台湾の社会そのものが二重、三重の言語を歴史的に長らく使いこなしてきたという背景もふまえている。台湾原住民たちの諸言語があり、そこに大陸から入植してきた漢人の話す閩南語(びんなんご、後の台湾語)や客家語(はっかご)が重なる。そして統治者たちが使うオランダ語や中国語、日本語が……と言語の層を作っていったわけだ。

文也は台湾語と日本語を混ぜながら笑顔で話しかけた。「柏川兄、遠慮はいらないよ。ここのフルーツカクテルは日本一うまいんだ。」『風の神のいたずら』19頁

 小説の中のこんなワンシーンも、時代によってはクヴァラン語(原住民諸語の一つ)と閩南語のミックスだったかもしれない。現在も日本語と原住民諸語の一つ・タイヤル語が組み合わさった言語(宜蘭クレオール、寒渓語)を話す村のように、かつてはさまざまなミックスパターンの言葉が響いていたのだろう。

文也は自分の名前が中国語で発音されたのが新鮮で、もう一度読み上げてほしいと英語で頼んだ。老志誠は驚いたが、「私の名前を」と重ねて言うと、「チアン・ウェンイェ」と繰り返してくれた。『風の神のいたずら』164頁

 現代の中国語、いわゆる標準中国語は官吏たちの用いた公用語「官話」がベースになっている。中国語/官話と台湾語/閩南語、そして客家語とでは、相互に文法がかなり近いものの、発音は大きく異なっている。

 日本の統治下で台湾から姿を消した「官話」は、第二次大戦後に「国語」として台湾に戻ってきた。それによって台湾語と中国語のミックス世界が台湾に出現した――と言いたいところなのだが、今の台北ともなると、なかなかこのミックスには出会わない。とくに20代や30代のホワイトカラーの人たちの会話の輪では、ほぼ中国語だけで会話が進行していく。

 ただし台北から離れて地方に行くにしたがって、だんだんと中国語以外とのミックス度が上がっていく。同じ大都市でも、南の高雄では市街でも台北に比べて台湾語率がずっと高い。さらに農村の方だと、普段遣いの言語が台湾語なせいで、発音は中国語だけれど、文法は台湾語では?という人もたまにいる。

 面白いことに、台湾語を普段遣いの言語にしている人々が、常に台湾語100%で話すわけではない。たとえば学術用語や難しい専門用語になると、わざわざ辞書で対応する台湾語を知っている人、つまり思想的に台湾語使用を行っている人でなければ使えない。だから話の内容が難しくなってくると単語が部分的に外来語になるか、あるいは単語を中国語にしたのに引きずられて、フレーズそのものが中国語にスイッチされてしまう。夕暮れに農家の軒先で会話の輪の隅にいると、ミックスなのかスイッチなのか、つなぎ目の曖昧な言語の世界が展開されていることもしばしばだ。

多言語の音が文字になるとき

 とはいえ音声の世界ではつなぎ目が見えなくても、文字での表現には限界がある。たとえば阿郎(私のあだ名だ)という人が朝の起きがけに「おはよう! ご飯もう食べた?」と声を掛けるシチュエーションを中国語と台湾語で書いてみよう。「𠢕」や「呷」など見慣れない文字がいかにも後者の異言語らしさを際立たせているはずだ。

 

中国語:阿郎講「早! 你吃飯了没?」
(アーラン ジアン「ザオ! ニー チーファンラ メイ?」)
台湾語:阿郎講「𠢕早! 汝呷飽未?」
(アーロン コン「ガウツァ! リー ジャッパ ボエ?」)

 

 実のところ、台湾語の漢字表記には、必ずしも統一された正書法(正規の記述ルール)があるわけではないので、より中国語に近く表記することもできる。たとえば、

 

  台湾語:阿郎講「𠢕早! 你吃飽没?」

 

 と書いてしまえば、両者の差異はそこまで目立たなくなる。ところが今度は表記が近すぎて、どの部分まで台湾語なのかわからない。つまり、さじ加減で切れ目を見えやすくしたり見えにくくしたりできてしまう。そしてなおややこしいことに、現実の会話は中国語と台湾語のフレーズがミックスされているかもしれないのだ。

 台湾の文学作品で、こうした中国語と台湾語(と客家語など)の文字表記をどこまで差異化するか一体化させるかは、かなり作家それぞれの個性によっている。それぞれの作家にとって悩ましい問題ということは、訳者にとっても悩ましい問題なのは間違いない。

 過去のパターンとしては、台湾語を(A)べらんめぇ調で訳す、(B)方言で訳す、(C)中国語部分と区別しない、と大きく三パターンの方針がとられてきた。いずれも一長一短があり、理解の自然さを重視すれば台湾語があることを不可視化してしまい、かといって表現をやりすぎると元々の意図以上の過度の差異化をしてしまうことになる(細かくは赤松美和子『台湾文学の中心にあるもの』(イースト・プレス、2025年)を参照されたい)。

 最終的に、本作『風の神のいたずら』では(C)中国語部分と区別しない、の方針をとることにした(少しだけ口調を荒くしてはいる)。一番の理由は、著者の朱和之氏が先のような台湾語を目立たせる表記法をとっていないことが大きい。言語の差に応じた表記が創作のギミックではないからには、翻訳の側で差異を目に見えるようにしてしまうと、本来の意図以上のものを表現してしまうことになりかねない。

 ただもう一つには、言葉の差異そのものが本作の主題ではないように思えるのだ。主人公は台湾語で、日本語で、中国語で、フランス語で話しはするけれど、音符の鳴り響く内心の世界は、きっと一つであったはずであるから。

「――君は自分を結局どこの人間だと思うんだろう?」
「全部だよ! 台湾・日本・中国だ。見ろ、私は三つの故郷それぞれに詩を書いたんだ――」『風の神のいたずら』422頁

ページトップに戻る

じんぶん堂は、「人文書」の魅力を伝える
出版社と朝日新聞社の共同プロジェクトです。
「じんぶん堂」とは 加盟社一覧へ