ハラスメントの「個人モデル」から「社会モデル」へ──『ハラスメント最終報告』刊行記念トーク(前編) 勅使川原真衣×朱喜哲 対談
記事:晶文社
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朱喜哲:今日はどこからいきましょうかね。すごい本なので、いろんな観点があるんですけど。
勅使川原真衣:最初はいい話からしてもらっていいですか。
朱:いい話しかしないですよ(笑)。じゃあ帯文を書かせていただいたことからいきましょう。帯文読み上げていいですか?
勅使川原:お願いします。
朱:帯文では、「ハラスメントは被害者と加害者の問題ではない。私たち皆が分業して立ち向かうべき構造なのだ。全社会人必読の書」と書きました。ゲラいただいて、めちゃくちゃすごい本だと思ったので、3本か4本か帯文案を書いちゃって、最終的にこれを採用していただいたんです。「全社会人必読の書」って普通っぽい表現なんだけど、ここで言う「社会人」って、誰かと一緒に働くあらゆる人、社会の中の一員として働く人が必読の本だという意味を込めて書いています。「会社員」っていう意味じゃないですよってことは、この場でお伝えしておきますね。
なんでかというと、この本で言っているハラスメントって、会社に限らない話じゃないですか。社会運動団体とか、NPOとか、大学でのアカデミックハラスメントとかにもあてはまる。むしろ会社という利害に結びついている組織の方が、介入の余地が比較的あるかもしれない。勅使川原さんのような組織開発のコンサルタントに依頼をして組織風土を変えることでできるかもしれないわけで。でも運動団体とか学生団体とかの方が、この構造的な問題に向かうのは難しいかもなと思いつつ書いてみたのが、今回の帯文だったんです。
勅使川原:すいません。気づいていなかった。
朱:だからいま言い訳をしました(笑)。
勅使川原:「分業」を盛り込んでくださったのも嬉しかった。
朱:分業も意識して書いた部分ですね。なぜ分業って言葉を使ったかについては、後ほど触れたいと思いますが、まず本の主軸になる部分のお話からいきましょうか。
ハラスメントの問題って、被害者と加害者の問題──被害者が名乗り出られて、加害者が特定されて、被害者が保護され加害者が処分される──っていう風になるわけで、被害者/加害者のモデル、言ってみれば「個人モデル」で考えられるっていうのが普通ですよね。ある種、刑法的な犯罪と似たメタファーとして考えられる。それに対して、この個人モデルじゃなくて「社会モデル」を導入したほうがいいというのが、勅使川原さんの主張です。
この場の方は皆さん知ってる方もいらっしゃるかもしれませんが、もともと障害をめぐって構想された「社会モデル」について、基本的な用語だということで、ここで解説だけしてもいいですか?
勅使川原:お願いします。
朱:障害というものを考えるとき、何かできないことがあったり、不自由な状態に置かれたりしている当事者の属性のことを、長らく「障害」って言ってきたわけですよね。でもよく考えると、単に能力的に一般的な平均値と差があることが即座に障害にならないということがいっぱいあるわけです。例えば目が悪い、視力が悪いとか。私もかなり悪いんですけど、それは別に障害にならない。
勅使川原:それダテ眼鏡じゃないですか?
朱:フレーム派手ですが、ダテじゃないです(笑)。
そういうふうに、障害っていうのはその人が持ってる属性じゃなくて、ディスアビリティとか欠如とかが、「障害状態」として社会に現れちゃうってことだという考え方が定着してきた。つまり視力であれば、視力を矯正する器具が安価にいっぱい流通していて、それにアクセスができる。だから障害が生じてないかのように振る舞えるわけですよね。このように障害っていうのは社会の中で作られるというか、障害という状態があるだけなんです。それは個人の属性によるものじゃなくて、社会の側がそこに対応できてないから障害状態が生じるんだって考えるのが、障害の社会モデルです。こんな説明で大丈夫ですか?
勅使川原:いいですね、安心して聞いてました。
朱:これってすごい画期的だったと思うんですよ。障害を障害者という個人の属性にしてしまうんじゃなくて、今この社会において障害状態があるんだとか、障害が生まれてしまってるんだっていうふうに、責任の所在を社会の側に開いて問えるようになる。これが今の障害の理解のスタンダードになってますし、障害の解消に関わる障害者差別解消法とかの理念も、ここに尽きている。さらに言うと、よく合理的配慮って言葉が障害者差別解消法で用いられますし、日本でも今使われてるし、なんなら一昨年から民間でも義務化されたということで話題になりましたが、あれって誤訳だと思うんですよね。
勅使川原:そうですね。合理的環境調整……。
朱:と言うべきだし。合理的配慮って、リーズナブル・アコモデーション(Reasonable Accommodation)という英語なんですが、これはアメリカの障害者差別禁止法である ADA(Americans with Disabilities Act)が元々の出典です。リーズナブルはもっともらしいとか、然るべきとか、リーズンがあるって意味ですよね。一方のアコモデーションって、配慮って意味じゃ絶対ないんです。アコモデーションというと、例えば視力の調節力とかですね。ピントを合わせるとか、遠くを見たらピントがこうなる。これって意識してそうするんじゃなくて、自動で調整されるものなんです。配慮してあげるっていうニュアンスは全くなくて、自動的に調節されて然るべきっていうのがリーズナブル・アコモデーションなんです。障害状態を社会が作っちゃってるからこそ、なるべく障害状態を減らしていこう、社会の側の責任でなんとかしていこうっていうのがリーズナブル・アコモデーションの理念なのに、これを合理的配慮って訳しちゃうと「思いやり」みたいなニュアンスが生じちゃいますよね。
勅使川原:「配慮してやってる」「やってる感」ですね。
朱:そう、してやってる感。だからそれが義務化されますっていうと、なんで飲食店とかもやらなきゃいけないんだとかっていう人が出てくるわけですよ。そうじゃないんだ、それは社会の側がみんなで調節すべきことで、その負担は公的にまかなわれるべきだから、個人の思いやりの問題じゃないし、個人の感情も含めた負担の話じゃないんだよっていうのがこの法の理念なんですね。なので、それが誤訳されたことによって、日本的な思いやりの話になっちゃう。そこには意図的なミスリードもあると思うんですが。
朱:ということで、これが障害の「社会モデル」です。私のこの理解が違うなとか、おかしいとかないですか?
勅使川原:大丈夫です。
朱:このモデルを、勅使川原さんはハラスメントに持ち込んでるんですよ。これ、たぶん初めての試みですよね?
勅使川原:初じゃないかなと思って書き始めましたけど、大丈夫でしたかね。読んだことあるよとか?
朱:僕は初めて見ました。
勅使川原:なんで誰もやらないんだろうと思って、今回おそるおそるやってみたって感じです。
朱:まさにハラスメントも同じように、ハラッサーと被ハラッサーがいて、その二者間の加害/被害の問題と考えられがちで、実際そうなっていると思うんですけど、これも個人の属性ではなくて「ハラスメント状態」が生じてるのであると。
勅使川原:そういうことですね。しかも職場は特にですが、悪人が悪事を働いているっていうことは、ハラスメント問題としてはそうない。みんな良かれと思ってやってたりとか、何か悪いことしてやろうっていうんじゃなくて、日頃から評価に偏りがあるとか、配置とか業務の分担に偏りがあるみたいな不均衡さが発酵していった先に起きるようないざこざなんです。
朱:なるほど。だからそれをハラスメントの社会モデルだというふうに言った。
勅使川原:はい、勝手に名付けました。
朱:社会モデル、つまり構造の問題として捉えていくということを、本当に情理を尽くして、ロジックパートというか理論的な部分と、事例パートというか具体的な会話も交えた部分も両方とも合わさって論じられていく。そういえば、最近小説もお出しになったんですよね? 会話がやってくる小説。
勅使川原:やってきてます。『「対話」がやってきた』。
朱:うろ覚えですみません…。小説まで書かれた勅使川原さんによる、めちゃリアルな事例のエピソードと、そこでの生き生きとした人々の存在感が、理論パートと噛み合いながら、このハラスメントの社会モデルをすごく説得的に押し出してくれていて、これはすごいなと思いました。
勅使川原:それでいくと、いきなりリチャード・ローティ出しちゃうんですけど、フィクションとか小説の力を借りたいと考えて。
朱:なるほど。やはり小説などに特有の役割を意識されていたんですね。結果的にこのバランスになったんですか?
勅使川原:そういう意味では、小説との掛け合いですね。
朱:はい、かなりそのパートが面白かったし、読ませる事例だなと思いました。
勅使川原:あれは一例じゃないんですけど、いろんなものをブリコラージュしてますが、実際にあった件を二つ使って、ずっとそれを読み直していくっていうやり方をとっていて。
朱:そうですよね。単にハラスメントを理論的に解剖する本のみならず、なるほど確かにねってことを物語を通して提示もしてくれてるので、読み味がエンターテイメント的に面白いというのも本書の魅力の一つですね。
勅使川原:嬉しい。
朱:さらにまだ褒めてもいいですか? 最初にいくつか書いた帯文案の一個で、これはもう「ハラスメントの概念分析」のお手本であるって書いたんですよね。我々はよく、哲学って何だろうっていう時に、概念を分析してるんだって言ったりするんですよ。哲学っていうのはいろんな言葉で言えますけど、一つには「概念分析」こそ哲学であると、よく自己規定するんですよね。僕はこの本を、哲学書でさえあると思っていて、「ハラスメントの哲学」っていうタイトルでも良かったと思う。
勅使川原:聞いてますか? 晶文社の方々。第二弾ですって!
朱:本当に出してほしい(笑)。「ハラスメント最終報告」っていうのは、ハラスメント概念についての最終報告であると同時に、「ハラスメント」なるものが最後になりますようにというダブルミーニングでしょうけど、ハラスメントという概念そのものを徹底的に分析してる本だと思いました。
勅使川原:えー、嬉しい。
朱:例えば類書でいうと、哲学者の古田徹也さんが書かれた『謝罪論』という本があります。あれは謝罪って何だろう、謝るって何だろうってことをひたすら哲学者として分析していくんですけど、そうすると、謝罪とはいかに難しいものかっていう構造が立ち上がるんです。謝られても謝られた気がしないとか、許せないとか、それは何なんだろうとほぐしていくんです。
勅使川原:2023年に出た本ですね。実は大好きな一冊で、めっちゃ参考にしてます。
朱:やっぱりそうですか。すごい納得しました。
勅使川原:素人ですが、そうか、ハラスメントを哲学してみたのか。
朱:哲学者の大事な仕事は、定型表現とか、それを言ったら終わりみたいになってるタイプの言葉づかいをどう解きほぐすかに真価があるわけです。例えば、それは差別だよって言ったら「はい終了」ってなってるところを、いや、差別が悪いというのはもちろん一般常識だけど、でも我々は日常的に人に差をつけたり、序列化したり、入試で落としたり、評価したりとかするじゃないですか。そういうのって差別をしてるんじゃないですか、というふうに問い直すみたいな話です。そのときに、差別っていうと怒られちゃうからじゃあ違う言い方をします、みたいに思考停止的に差別は悪いとするんじゃなくて、差別的処遇をすることの行動実践を定義した上で、人を序列化したり、差別的な対処をすることは、いつ、いかなる時に悪くなるんだろうか、概念とその価値付けをちゃんと分けるとこから始めるわけですよね。
『ハラスメント最終報告』では、まさにそれをやってらっしゃって、もうこれ冒頭からめちゃめちゃふるってるんですけど、今ハラスメント概念があふれるぐらい飽和して、「何々ハラ」って死ぬほど出てきてて。
勅使川原:ハラハラもね。
朱:ハラスメントだと言い過ぎることによるハラスメントですね。僕はカスハラあたりからちょっとダメだなと思ってるんですけど、それは置いとくにしても、そういうふうに「ハラスメントですよって言ったらおしまい」ってなってるところを、そもそもハラスメントって何なんだろう、ハラスメントと名指しうる事象とは何なんだろうってことを、価値付けといったん切り離して考えた上で、じゃあそれはいついかなる時悪くなり得るのかと考えていく、この手続きがめちゃくちゃお手本のような概念分析だと思いました。
勅使川原:概念分析だと思ってやってはいなかったのですが、えー、嬉しい。でもね、私その哲学における概念分析でもなんでもいいのですが、雑な言葉によって認識や常識までもが雑になっていることが世の中ありすぎると思っていて。だからもう分析したいことがいっぱいあって、その分だけ本書いてる感じなんですよ。今おっしゃったように、哲学って括りでも読み解けますし、教育社会学に引き継ぐならば、多分知識社会学になる。
朱:なるほど。
勅使川原:私の師匠の苅谷剛彦先生がここのところ著書で発表していらっしゃるのは知識社会学で、例えば教育問題について「教育格差」と言ったことによって、単なる初期値の不平等の問題なのに、なんだか格の違いで起きる仕方のないこと、みたいになってるよね……ということを言ってきたのが苅谷先生なので、その流れで今回は「ハラスメントの脱構築」を私がやってみたんです。
朱:いや、すごいなと思います。特に勅使川原さんは実践の方でも経験おありじゃないですか。私たち人文の中の人間は、ある種のマジックワードじゃないですけど、それを糾弾できれば勝ちみたいなゲームをしがちな部分があって、だからハラスメントに認定されるかどうかみたいな話になりがちなんだけど、よくある言葉づかいの滑り坂的なものに意識的にストップをかける人じゃないと書けない話ですよね。仕事柄関わっていらっしゃる人ほど、その中側の力学に絡め取られがちだと思うので、それがすごいなと。
勅使川原:嬉しいなぁ。でも関係者いたら申し訳ないですけど、教育社会学でいうと、知識社会学ってそこまで日が当たらないんですよ。やっぱ地味なんですかね。
朱:そうなんですか。ちゃんとわかってないですけど、理論的にはなんて言うんですか? 知識社会学においては。
勅使川原:そうですね、言葉の磁場を問い直す、と本田由紀先生なんかはおっしゃっています。言葉で人は認識し、その認識から社会は構成されてるというのが基本なんですが、それやるとサイエンスじゃないよねとか言われることも。実証研究の方が花形感はあるような。とはいえ知識社会学の面白さに私は、歳を重ねるほどに心酔していますが。
朱:そこが一番ご自身の学術的バックボーンとして自認されるとこなんですか?
勅使川原:そうですね。なので、この本の前に書いたの12冊は全部能力本。
朱:そうですよね。能力概念をほぐしていくとか。
勅使川原:そうなんです。ハラスメントっていうのも、能力と似てますよね。「ハラスメント問題」と呼び、問題視しながら互いを監視し合っているけれど日常のあれやこれや、関係性にそんなわかりやすい〇・×の書かれた札は貼られていないですからね。「ハラスメント」と冠された問題が真空状態に浮かんでいるわけではなく、日常的な役割分担の偏りや評価への不満などが問題の根っこにはあるんじゃないかっていう話をしているわけです。
朱:勅使川原さんは組織開発コンサルタントもやってらっしゃるじゃないですか。これはハラスメントの状態をどう是正するかみたいなことは業務上で関わってらっしゃってきた。
勅使川原:よくあるご相談としては、「人事部長としてハラスメント対応をしていたつもりが、訴えられたんだけど!」とかいうのも弁護士さんに相談するのと別に、私のところにも来たりします。
朱:そこがこの本における、哲学者としての──哲学者が「哲学者」を褒めことばとして扱うとちょっとよくないと思ってるんですけど、ここでは現場をもたない純粋な理論家のことと思っていただいて──概念分析のシャープさや明晰さと、実務経験を通じてのありありとしたリアリティが両立している理由じゃないでしょうか。「そうだよね、そんなわかりやすい悪人がいるわけじゃなくて構造上こうなるよね、こういうの言っちゃうよね」っていうエピソードの生々しさとナラティブの豊かさ。普通この二つって一人の人間の中では同居しないと思ってたので、この二つが組み合わさっているところも凄まじいというのが、いろいろあるすごいポイントの中でも、大きな点だと思います。
勅使川原:事例の話ですね。
朱:事例の生々しさと、そこに向き合ってる身の処し方が、単に被害者に感情移入するとか、加害者にも共感してしまうということじゃなくて、仕事としてちゃんと向き合って来た方ならではの重みがあると思います。構造の問題って言ったら、ある意味ではわかりやすい解決がないわけですよ。加害者を別部署に飛ばしたり、処分して終わりとはならないってことが「構造」を問う帰結なので、わかりやすい結末がない中、もがいて実務をやった人にしか書けないタイプのリアリティがあります。
勅使川原:それは、朱さんも自分のことちょっと言ってます?
朱:はい、私も企業組織における実務家でもあるので、勝手にシンパシーを感じました。
勅使川原:やったー。
朱:理論家としての眼差しと、実務者としてのプロフェッショナリズム、プラス良くしたいんだっていうマインドの部分、それが同居してる点で、僕はかなりシンパシーを持って読んだんですよ。
だからこそ即座に、帯文書かせてくださいって言ったんですけど。
勅使川原:すごいなあ、シンパシーあったら嬉しいなと思っていたんで、めちゃくちゃ嬉しい。
朱:一方で、なんで自分にはこういうこと書けないんだろうなとも思います。例えばハラスメントの哲学って、僕にはまだまだ手に負えない話ですけど、自分が向き合ったり、業務で触れているであろうことを概念分析的な手法を用いて解体した上で、プラクティカルかつ、理論的にはそれしかないという形でできないだろうかと思うけど、見果てぬ道だったりする。まだ解がない領域の中に、どうやったら改善できるか、実務を踏まえて足場を確かに作っているこの本は、結構奇跡的だと思います。
勅使川原:今ちょうど言いかけてらっしゃったところがポイントな気がして。悩みながらも何とか形にしてるけれども、そこって解がないし、ある種雑さとも言える部分なのかなと思っていて。
朱:実務ってそうですよね。ある種雑さがともなう。
勅使川原:そうなんですよ。「よりマシな感じ」を目指そうというつもりで出してるんですけど、そこが必ずしもいいって思ってもらえないのかなとも思ったり。その辺、朱さんは引っかかりがありました?
朱:引っかからないどころか、本書の事例のリアルさがすごくて。頭で考えて作る事例じゃないんですよね。良心的で思いやりに溢れた上司が良かれと思ってやったこととか、いろんなことが重なって問題になって、単純化すれば、いわゆる他責思考の新入社員のせいだねとか言っても良さそうなところが、そう言ったら終わりの言葉を使わずに、ハラッサーが悪いではなく、あるいは最近の若者はこんなもの、ということでもなく、かなりギリギリの話をずっと続けるんですよね。
勅使川原:そうなんです。最後まで事例のヨミトキとともに進行する。
朱:どこでどうすればよかったかっていうのが、ケースバイケースだから答えはないんだけど。僕が読んで感動したのは、もしかしたらこのハラスメントは構造なんだとか、被害/加害じゃないんだっていう観点があれば、確かに何か違うことができたかもしれないって思わせてくれるところ。構造の話自体は、まさに哲学的というか、抽象的じゃないですか。
勅使川原:はい、そうですね。
朱:その理論をどう現実に適用するかは、ケースバイケースで違いますよね。起きた状況によっても、被害者の傷つき具合によっても違うかもしれない。でもその時に指針になるようなものになってることは確かだなと思って。普通はある理論書があって、実践の人がそれを使いながら自分なりに応用しましたっていうことが多い気がする中、自分一人で二役やってらっしゃる。だからそのレイヤー間の移動がやっぱりすごかったです。
勅使川原:嬉しいな。
勅使川原:一方、じゃあどうすればいいんですかって、どの本書いても絶対に言われるんですよ。でも私は思うんです。じゃあそれ書いたらあなたやるんですか? あなたそれで解決するんですか? って。はっきり言ってそんなことないと、20年近くこの仕事してきて思ってます。そんなことは私の良心としてはしませんよと。その問題の根っこをつかめば、皆さんが現場で考えられることがもっと増えるので、皆さんの武器になるようなことを書いたりしてるんです。
朱:哲学だと、ここ10年から20年ぐらい、理論だけやるのってもう流行っていなくて、特に英語圏だと応用言語哲学って言ったりしますけど、社会の一員として言葉を扱う専門性を持っているんだから、その社会的な責任を果たそうという流れがあります。例えば男性がなんでも上から説明を始めちゃうマンスプレイニングみたいに、具体的な言葉づかいを伴う事例とか、あるいはヘイトスピーチとかも、なんで言葉が人を傷つけるのみならず、社会を壊しちゃうんだろうかとか、あるいはプロパガンダって何なんだろうとか、よく言う犬笛ってどういうメカニズムなんだろうとか、こういう実践的な課題にちゃんと挑もうっていうのが、この20年ぐらいの流れなんですよ。でもさすがにそういう人たちも、やっぱり理論家なんで、出てくる事例とかは頭で考えたようなものになりがちだったりするんです。もちろん具体的なニュースも使うんですけど、哲学者の場合その迫力がない。勅使川原さんの本は、理論家としての手つきと、実践を知ってる人ならではのすごい生々しさとか、一筋縄にいかなさがあるので、本当に面白いです。
勅使川原:もっとわかりやすい答えが欲しい人には伝わるだろうか?と悩みつつも、とにかく誠実に書いたとは思います。朱さんの『バラバラな世界で共に生きる』もそうだなと思いますよ。誠実にやろうとしたら、複雑なものを複雑に書くしかない。
朱:それしかないですよね。複雑なものを複雑なまま書くためには、クリアな理論だけじゃなくて、エピソードとか、そこに生身の人間がいるっていう感じがやっぱ必要じゃないですか。そればっかり言っちゃってますけど、とくに後者を兼ね備えているところが稀有な本ですし、すごいなと。
(後編へ続く)