【対談】藤原さと×朱喜哲 後編 デジタル・コミュニケーションの世界と民主主義
記事:平凡社
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朱喜哲(以下、朱):2026年現在、長きにわたって築かれてきた国民国家という枠組み、そして第二次世界大戦後に形成されたリベラル・デモクラシーの時代が急速に崩壊し、終わりに向かいつつあるのではないかという感覚があります。もっとも、こうした危機の時代と理念の立て直しはこれまでも繰り返されてきました。たとえばロールズの『正義論』はベトナム戦争や公民権運動の時代に生まれましたし、リベラリズムも、先に述べたように、宗教戦争を経験したヨーロッパの歴史の中から生まれました。いわば「戦後の思想」です。戦後に、いかに反省を重ねていくかというかたちで歴史が積み重ねられてきたことを考えると、現在起きていることも、そうした記憶が薄れた頃に再び別のカタストロフが生じるという、歴史の反復の一局面であり、歴史の転換点にあるように感じざるを得ません。
昨年刊行されたヤニス・バルファキスの『テクノ封建制』で論じられているように、現代のテクノロジー主導のデジタル社会は、従来の国民国家的な資本主義とは異なる様相を呈しています。グローバルなプラットフォーマー、すなわち民間の巨大企業が、公共的領域を占有しているかのような状況になっている。
本来、国家とは市民との契約関係の上に成り立つものであり、私たちは国家と社会契約を結んでいる存在です。しかし現在では、私たちと契約関係を結んでいない、あるいは結んでいるとしても単なる「ユーザー」にすぎない関係にとどまる私企業が、世界の中心的なプレイヤーとなっています。その意味で、社会の隅々まで商業化が浸透している。公教育の領域ですら例外ではありません。
これまで教育においては民主主義の主権者教育が重要な要素とされてきましたが、今後は、「ユーザー」としてのあり方を問う教育も必要になるのかもしれません。いま子どもたちは常時接続された状態に置かれ、友人関係の形成やコミュニケーションの空間も、民間のプラットフォームに大きく依存しています。履歴データは個人に紐づけられ、位置情報や購買履歴なども開示可能であるかのように扱われつつあります。そしてSNSの世界においては、過去の発言や鍵アカのポスト、DMまでが、公共の光のもとで「正しい」かどうかジャッジされる傾向が強まっています。しかし、そもそも、人が秘密を持つことや、持てるという自由さという根本的な理念を問い直し、技術のもたらす「スマートさ」に対して抗うことは、人文知や教育が担うべき重要な役割であると思います。
現在の状況においては、国家や国家権力を相手に想定した教育では、もはや個の形成(インディビジュアライゼーション)はできないのではないか。プライバシーや公共性に対する感覚が決定的に変わりつつあり、民間の企業が公共的な役割を担っているとも言える、SNS時代における公教育のあり方についての見解があれば、ぜひ伺いたいところです。
藤原さと(以下、藤原):ウェストファリア体制以降に確立された国家主権、国民国家という枠組みは限界にきていると、私もひしひしと感じています。現に「国境」の問題が、世界中のあちらこちらで対立や混乱を引き起こしていますよね。
国民国家の根底にあるのは社会契約の考え方ですが、私たちと対等な契約関係を結んでいない私企業が、世界の中心的なプレイヤーとなっているというご指摘は、まさにその通りです。空恐ろしさも覚えますし、同時に民間のプラットフォームがここまでグローバルに展開する状況に至っているということにも驚いています。というのも、私は2000年代にソニーの戦略部門で働いていたのですが、当時はどの企業も独占禁止法の動向を常に意識していたからです。
朱:2010年代後半から、Appleが独占禁止法違反で提訴され続けていますよね。AppleのCEOであるティム・クックは、「Appleのような倫理観のある企業が統制しているからこそ、世界中のユーザーのプライバシーが守られている」と主張しています。市場における独占的な地位を正当化する根拠として、倫理が用いられるという構造になっているともいえるかもしれません。
哲学や倫理が正当化の理屈として用いられる状況は、常に存在してきました。それはある種の「ウォッシング」として機能し得るもので、批判的に向き合わなければいけないのですが、自由競争に委ねた結果として生じうる市民社会のリスクに対して、国家が有効な手立てを打てない状況が現に存在しています。この問題にいかに向き合うのかは、現代における極めて大きな課題の一つであると考えられます。
藤原:おっしゃる通り、とりわけデジタル・コミュニケーションにおいて、私たちは多くの機能や情報を特定の企業に依存しすぎていますよね。プラットフォームに写真を保存し、プライベートな情報も書き込む。でも、そんなプロバイダーとユーザーの「信頼」関係は、いつ破られるかわかりません。OpenAIやGoogleが最低限の良識を保ち続けることを、どこか祈るような気持ちで願ってしまいます。その点で言えば、Twitterがイーロン・マスクに買われ、Xへと移行し、大きく性質を変化させた事例は象徴的です。
朱:民間企業とは、まさにそのような性質を持つものですからね。
藤原:そのような民間企業の仕組みに無自覚に依存して生きている危うさは、常に感じています。ジョン・デューイが指摘するように、民主主義とは単なる制度ではなく、人々のあいだのコミュニケーションに支えられる共同的な生活様式です。しかし、現在はそのコミュニケーションの多くがテクノロジーを介して行われており、それが特定の企業の価値観や判断に大きく左右される構造となっている。私たちはとても不安定な基盤の上に立っているんですよね。
昔は国家権力が言論統制をしていましたが、現代社会においては、民間企業が私たちのコミュニケーションを見えにくい形でコントロールしています。その動きに抗っていくためには、やはり国家権力に抗ってきたように、企業による勝手なコントロールにNOを突きつけなければならないのでしょう。
藤原:先に述べたように、国境という枠組み自体も、今日ではさまざまな問題を引き起こしているように見えます。たとえば第5章「成人の民主主義」で、デンマークの事例を出しましたが、同国の教育は理想的に語られる側面がある一方で、移民排斥などの問題も存在しています。
そのような状況の中で民主主義を考えたとき、かつての大学生時代の私は深い絶望を覚えていました。しかし、その絶望から自分を救ってくれたのが教育でした。デューイがいう通り、民主主義とは、経験を分かち合って、人びとのあいだの対話や会話によって成り立つ生き方なのだとすれば、社会や世界は生活の中から変えることができるものであって、同時に自分自身も教育を通じて変わっていくことができます。
世界を一挙に変えることはできないかもしれない。そして、世界が壊れてしまうように思ってしまうときもあるかもしれません。でも、そのときに自分はどう向き合い、どのように振る舞えるか、その決断はできます。また、そのようにできるような子どもたちを育てることもできる。そのように実感できたことが、私にとっての希望になったんです。教育によってすべてを変えられるとは考えてはいませんが、一つの希望であると感じています。
朱:なるほど、わかる気がします。いまの政治のあり方を見て、無力感を抱いている人にこそ、『こどもと民主主義をつくる』は届く一冊だと思います。紹介されているさまざまな実践を通して、いまも種はまかれており、そこから自分たちにできることがあると気づかせてくれる。藤原さんの本がどこか人を勇気づけるのは、やはり同様の絶望を出発点としながら、そこからいかにして希望を見出すかという問いが貫かれているからではないでしょうか。そして、藤原さんが見出した希望が教育に託されている点に、大きな意味があると感じます。
藤原:本のサブタイトルは「教育にできること」なんですが、そういう小さな希望ですけれども、何か考えていけたらなと思っています。
構成=吉田真美(平凡社編集部)