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ボーイズラブが地味な古典を救った? 井原西鶴の奇書「男色大鑑」をBLとして読む

文:菅原さくら、写真:斉藤順子

男性だからこそ書ける“ねっとりと熱を帯びたボーイズラブ”

――ずばり「男色大鑑」は、BL的にどこが面白いんですか?

大竹:男性の西鶴が書くからこそ、作品に濃密な“熱”が感じられるんです。たとえば巻二に収録されている「傘持つてもぬるる身」は、愛する少年に浮気をされた殿が、その少年を処刑してしまう話です。少年の左手を切り落とし、右手を切り落とし、最終的には首をはねる。でもその少年は、処刑の瞬間に「愛する男を抱いたこの手が、さぞ憎いでしょう」などと、挑発するようなことを言うんですよ。こんな残酷で情熱的なストーリー、少女漫画や女性が書くBLにはありません。作家のねっとりした欲望を反映するような、強い“オスの匂い”が漂っているんです。

染谷:巻二の「夢路の月代」という話では、若衆(男色の対象となる年少の美男子、16歳が平均)が川上に吐いたつばを、彼に惚れている年長の男性が川下ですくって飲みます。それを見た若衆はその男の愛を感じて、きゅんとときめく。僕はこの場面がじつに美しいと思いました。

大竹:……というのが、いわゆる“男性特有の感覚”なんですよね(笑)。女性からすれば唾を飲むなんて、ブルセラショップで染みつきパンティを買うのに近い気持ち悪さというか……少なくとも、それをされてときめいたりしないじゃないですか。だけど、そんな行動に愛情を感じる男たちが大勢登場するから、「男色大鑑」は濃ゆくて面白いんです。

染谷:でも、若衆は口の中をキレイにしておくのがエチケットだから、唾といってもそんなに汚くないんですよ! 酔っ払いのオジサンが吐いた唾とは違う(笑)。とはいえ、この話を若衆文化研究会でしたところ、女性たちはさーっと引いていましたけど(笑)。

――たしかに興味がわいてきます。とはいえ、なぜいま時を超えて「男色大鑑」がBL作品として親しまれはじめたんでしょう。

畑中:ねっとりしたもの以外に、現代のBLに通じる物語も結構あるんですよ。たとえば巻四の「詠めつづけし老木の花のころ」というお話は、自分たちの愛を守るために、やむをえず殺人を犯した男性カップルが、年を取ってもラブラブのまま隠棲している物語。これまでの西鶴研究では添え物のような扱いを受けてきた一篇ですが、“じじいBL”なるものが支持を集める現代では、腐女子の方々にとても愛されているようです。

大竹:「年を取っても目移りせず、自分をかわいがり続けてくれる恋人」というのは、憧れの存在ですよね。腐女子がラブストーリーに求める、ひとつの理想型だと思います。いまはそういう、たわいない日常を描いたBLもすごく人気がありますし。

染谷:西鶴やその読者にとっても「男色大鑑」、とくに前半の武士編は、ひとつの理想形です。町人にとって、武士は憧れの存在でもありましたから。つまり、腐女子と西鶴の“純愛志向”が上手く重なったということだと思います。

大竹:あともうひとつ、西鶴が描く女性キャラは、とてもドライなんですよ。現代の女性も、社会進出が増えるにつれてどんどん性格もさっぱりというか、強くなってきていますよね。その代わり、男性は恋をするといつまでも執着心が強くて、未練たらしい。そんなキャラの描写にもリアリティが感じられて、いまの読者にマッチしたんじゃないでしょうか。

余白のある西鶴の原文を“物語として読める”までに訳した

――「男色大鑑」ブームの火付け役となったコミカライズ作品と、この秋に出版された現代語訳。このふたつは、表現にどんな違いがありますか?

染谷:まず、コミカライズと「男色大鑑」そのものには“性描写の有無”という決定的な違いがあります。BLの濡れ場は、欠かせないお約束ごと。でも、西鶴の原文はなまめかしい匂いをぷんぷんさせているのに、直接的な描写がないんです。

大竹:だからこそ「具体的に書かれてはいないけど、きっとこんな場面もあったんじゃない? こんなことしてたんじゃない?」なんて、妄想のしがいがあるんですよね。同人誌をつくるときに、原作のスキマを縫って想像をふくらませていくのと同じ。だから、男色大鑑のコミカライズを描くのはとても楽しかったです。

畑中:このたび編集した現代語訳も、直接的な性描写はありません。でも、これまでの逐語訳とも違うのは、ひとつの物語として読めるように“意訳”しているところ。合計8名の訳者と私たち編者が力を合わせ、原文とみっちり突き合わせたり、音読したりしながら、一定の解釈をつけた現代語訳です。

染谷:西鶴は俳諧師でもあるので、句と句のあいだを想像力で埋めるような表現がうまいんですよ。ある意味そのせいで、浮世草子の文章もあっちへ飛んだりこっちへ飛んだり、話がねじれたりと読みにくい。けれど、その“余白”が彼の面白さでもある。

畑中:現代語訳では、その“余白”をすこし補っているんです。たとえば巻二の「形見は二尺三寸」というお話に、若衆が殿の心変わりをさみしく思うシーンがあります。原文ではまず、唐突に「世に遠州行灯ほどのことも、また出来まじきものぞかし。又次郎といへる男、観世ごよりをはじめて、今重宝となれり」と始まります。逐語訳だとそのとおり道具の説明を並べて終わりですが、今回の現代語訳では、行灯やこよりの材料を眺めている“主人公の目線”に着目しました。
 行灯があるということは夜で、こよりは古い手紙を引き裂いて作るもの。つまりこのシーンは、殿の心変わりで絶望し、死を覚悟した若衆が、夜中に身辺整理をしている場面なのだとわかります。行灯もこよりも人の役に立つのに、僕はもう役立たずだ、というわけです。このように、前後の脈絡とつなぎあわせて、丁寧に訳していくわけです。現代語訳だけでも、充分に楽しめる作品となっています。

“同性愛への蔑視”によって、ずっと目立たなかった「男色大鑑」

――こうして聞くととても面白そうなのに、西鶴の作品のなかで「男色大鑑」は全然目立たない印象です。

染谷:そうなんです。20数作ある西鶴の著作で、「男色大鑑」はとても地味な扱いを受けてきました。ほかよりも作品の分量が多いうえ、残っている本そのものも丁寧につくられていて、挿絵もきれい。なのに、アンソロジーにも選ばれないし、研究対象にされることも少ない……。そこには長く、研究者たちによる“男色への蔑視”という問題がありました。僕も最初に「男色大鑑」を研究すると言ったときは、先輩方にとめられたほどです。

畑中:私は学部時代にフランス留学していたため、フランス語訳の「好色五人女」で論文を書いたことがあります。そのとき、外国語に訳されたほかの西鶴作品も追いかけていたところ、面白い事実がわかって。なんと、欧米人のなかには「はじめて読んだ西鶴は『男色大鑑』だ」という方が一定数いたんです。ヨーロッパでは、長いあいだ同性愛が抑圧されてきました。そのぶん、極東の日本で古くから親しまれていた“男色”という文化に、強い関心が持たれて、いち早く訳書が出たんじゃないでしょうか。

染谷:僕や畑中さんを含めて、少数の研究者はずっと「男色大鑑」を読んできたけれど、どうにも傍流の域を出なかったんですよね。ところが、2016年に“BL”という軸を得てコミカライズされてみると、ぐっと読者が増えた。時代の流れとあいまって、ようやく「男色大鑑」が日の目を見たんです。僕はこれまでBLのことを全然知らなかったので、思いも寄らないスポットライトの当て方があるもんだな、と感じましたね。

畑中:それでこれまた面白いことに、「男色大鑑」のなかでフランス語訳のセレクションに選ばれた物語と、コミカライズに選ばれた物語は、かなりタイトルが重複しているんですよ。100年ほどの時間経過や土地の違いがあっても、男色に関心のある読者を引きつける作品には、さほど差がないのかもしれません。

BLは、男女平等にも古典研究にも、新たなきっかけをもたらす

染谷:BLというカルチャーはそもそも「女性が男性器や性行為に興味を持ったり、その話で盛り上がったりする」ということ自体が面白いですよね。男性が女性の身体について話すのは当たり前だったけれど、“性的なものと女性”の関係が変わってきたんだなと思います。

大竹:いままで、女性が性的な話をするのはタブーでしたもんね。でも、女性も男性器や性欲について普通に語れてはじめて、本当の男女平等がやってくると思います。「男性同士のセックス・ストーリーを読むのが面白い」という感覚は、その第一歩になりえるんじゃないでしょうか。

染谷:古典研究においても、BLという視点はすごく可能性を秘めていると感じます。昨今は西鶴だけじゃなく、竹取物語や伊勢物語でも、BLとして読み解いた現代語訳本も出ていますしね。

畑中:限られた原文を糧に、どんどん解釈を深掘りしていくのは、そもそも研究者がずっとやってきたこと。BLは“妄想”をきっかけに掘り下げていくわけだけど、やっていることは、研究者も腐女子もじつによく似ています(笑)。

染谷:今回の現代語訳も、コミカライズを受けて文章で読みたいという方々が出てきたから実現できた企画です。今後、いろんな古典に対して、こういう取り組みをしていったら絶対に面白い。ドラマ化や舞台化なんて展開もあったらいいですね。

大竹:「テニスの王子様ミュージカル」略して「テニミュ」ならぬ「男色大鑑ミュージカル」略して「男ミュ」……すごくいいですね!(笑)