役者のファンに「誰と組んだら面白いか」を聞いてリサーチします
――演劇プロデューサーとはどういう仕事なのか、ピンとこない人も多いと思います。
皆さん「音楽プロデューサー」とか「映画プロデューサー」と聞けば、なんとなくわかりますよね。演劇も基本的には同じです。人を決め、集客し、最後にお金の責任をとる。具体的には、劇場を押さえ、キャスティングし、演目をどうするか方向性を決め、公演の規模などを決めていく仕事です。
ただ私の場合特殊なのは、たとえば東宝や松竹といった制作を行っている会社に属しているわけではなく、Bunkamuraみたいに小屋を持っているわけでもない。劇団☆新感線という劇団ありきでプロデューサーをやっている点です。
――舞台の公演はどのくらい前から計画され、いつ劇場を押さえ、キャスティングはどのように行うのでしょうか。
劇場を押さえるのは約2年前。今は2018年の年末ですから、2020年までの劇場を押さえています。劇場を押さえる段階で、ほぼ同時進行でキャスティングと作品の方向性も決めています。
なかでもメインのキャスティングは集客の要。「あの人は芝居が上手だから」みたいな理由でキャスティングをするわけにはいきません。その役に合っていて、なおかつ集客ができる人。メインの人に対してどういう人を組み合わせると、お客さんにとって魅力的なのか。お客さん目線の組み合わせも考えなくてはいけません。
そのためには、たとえばある役者のファンたちに「誰と組んだら面白い?」と聞くなど、日頃のリサーチも必要。人脈づくりも必要ですし、飲み会なども大事な情報源です。
――並行して何本くらいの作品を抱えていることになりますか?
たとえば東京・豊洲にできた360度回転する劇場、IHIステージアラウンド東京のこけら落とし公演の場合、2017年から2018年の2年間で、『髑髏城の七人』シリーズ、『メタルマクベス』をあわせて9本上演しました。だから2015年と2016年は、2年分のキャスティングをしていた。もう、吐きそうなぐらいでした。
とにかくそれぞれの公演で少なくとも6万人、多くて10万。全体として70万人くらいは観客を呼ばなくてはいけない。私のプロデューサー人生の中で、一番の危機でしたね。
――演劇プロデューサーに欠かせない資質とは、どういうものでしょう。
「忍法しらん顔」ができるかどうか(笑)。小さな問題というのは、常に起こるものです。なんでもかんでも解決しなきゃ、と思っていたらキリがない。時には「そりゃあ大変だね」と聞いているふりをしていて、知らん顔する(笑)。そのくらいでないと、精神的につぶれてしまいます。すると案外、1週間くらいで解決するものです。それでも解決しなければ、手を打ちます。
キャスティングをオファーし、事務所から「前向きに考えます。本人もやりたがっていますし」と好感触だったのに、2週間後「すみません、ちょっとそこはテレビが入りそうなので」と言われたとします。そういう時、私は人生で一回も、「いやいや、そうおっしゃらずに」と押したことはありません。「はい、わかりました。じゃあ次回、よろしくお願いします」でおしまい。
スパッと決まらないということは、何かあるんですよ。縁がなかった。そこでゴリ押ししても、いいことはない。ちょっとでもつまずいたら、「なかったことにしましょう」と。それも含めた直観力も、プロデューサーには必要です。
とにかく、いちいち傷ついていたら、もちません。いい意味での鈍感力がないと。
演劇は、大学を卒業するまで見たことがありませんでした
――そもそも、どういう経緯で演劇プロデューサーになったんでしょうか。
正直言うと、演劇が特に好きだったわけではないんです。私は愛媛県の新居浜という町で育ちました。同郷で幼稚園時代からの友人で、中学時代に仲良くなった男が、後に劇作家・演出家となった鴻上尚史です。私は大阪の大学に、鴻上は東京に行き、早稲田大学時代に「第三舞台」を起ち上げた。
当時、80年代当初でバブルの手前。まわりで、たとえば銀行に就職が決まったとか喜んでいる人がいたけれど、私にはその何が幸せなのかがちっともわからなかった。
卒業後、いくつかの職場を転々とし、ぷらぷらしていた時、幼馴染の鴻上から第三舞台を手伝わないかと誘われた。ちょうど第三舞台の人気が出始めた頃です。
演劇そのものは、大学を卒業するまでちゃんと見たことがありませんでした。だからなぜ誘いに乗ったのか、いまだによくわかりません(笑)。
――いわゆる小劇場ブームの頃ですね。当時、小劇場といえば、役者が制作も兼ねるのが普通でした。演劇とは関係ない人が参加するのは、珍しかったんじゃないでしょうか。
小劇場で制作専任者がいるのは、珍しかったかもしれません。ただやり始めてすぐに、役者に制作ができるはずないと思いました。だって役者は、自分のことしか考えていないから。
私は一般企業で働いた経験があったので、当然のこととして集客目標を想定する。芝居で食べていくにはこれだけの集客がなければだめだと、数字目標を決め、そのためにどうしたらいいかを考えるわけです。そういう発想も、当時の小劇場では珍しかったと思います。
――第三舞台に13年間いた後、98年から劇団☆新感線の制作に移り、社長に就任された。当時、新感線がここまでエンターテイメント界を席巻する存在になると思っていましたか?
最初に見た頃は、大阪でバカみたいな芝居をやっていました(笑)。自分たちが楽しいことをやる、それだけです。だって大の大人が、タヌキのキ○○○を振り回したり、小学生レベルのギャグをやってたんですよ。集客なんて発想もなかった。これじゃあダメだと思いました。
ハードロックなどの派手な音楽に派手な照明というのが主宰のいのうえひでのりさんの演出ですが、そこに劇作家の中島かずきさんが入ったことで「いのうえ歌舞伎」という体裁をとるようになり、きちんと物語を描く作品にシフトしていった。そこに若き日の堤真一君とか、いろいろな人が混じり始めたわけです。それを横で見ながら、「よし、この方向性だ」と。大手の製作会社の力を借りなくても、自分たちでできると気づき、今日のプロデュース公演スタイルに行きついたわけです。
大事なのは、億単位のお金の責任をとる覚悟があるかどうか
――35年間、演劇プロデューサーという仕事を続ける中で、芝居を取り巻く状況もだいぶ変わってきたのではないでしょうか。
すごく変わりました。今は若いアイドルも、皆さん舞台に出る。80年代には考えられないことです。テレビに出ている人が舞台に出るというと、「あぁ、売れていないんだ」と思われる。そんな空気が流れた時代もありました。
人間、わかりやすくお金で動きますから。テレビに出ていればどうにかなっていた時代は、みんな目がテレビに向いていた。それがだんだんテレビに陰りが出始めると、一時は落ち込んでいた日本映画が元気になり、芝居も元気になってきた。
芝居は大きなお金にはならないけれど、集客さえすれば、ある意味確実です。映画はたとえば製作費に1億円かけたとして、どのくらい集客できるかはわからない。でも演劇は5000円のチケットを1万枚売ったら5000万円と、はっきりしている。その中で作りましょう、という計算ができます。
――仕事をやめようと思ったことはありませんか?
55歳の時、やめようと思いました。お袋が亡くなり、親父が一人になった。仕事をやりきった感もあったので、新居浜で親父とのんびり暮らして親孝行の真似事でもしようと思い、新居浜に戻ったんです。ところが思いがけず、あっという間に父が亡くなってしまい――。その頃、例の2年間で9本連続というプロジェクトの話があり、引っ込んでいる場合じゃないかな、と。だから「引退詐欺」と言われています(笑)
――演劇プロデューサーという仕事で一番大変なことは何ですか。
お金です。「3億円くらい貯金持っているの? そんな大金あるわけないでしょう」という話です。何かトラブルがあり、公演中止にでもなったら、簡単に2億、3億飛んでしまいます。その責任をとれるかどうか。それを背負えないから、みんなこの仕事を尻込みする。なので私は、バツなし独身でここまで来てしまったのかも。何かあったら、「ハイ、すみませんでした。自己破産です。以上。それでどうにか、ご勘弁を」と。
もし守るものがあり、「子どもがまだ3歳だしなぁ」とか頭をよぎったら、そこまで腹を括れない。いざ何かあったら「自己破産」すればいいというカードを持っているかどうか。もちろん、そうならないようにはしているつもりだし、そのことのほうが大事ですけどね。
――35年続いたということは、やはりこの仕事がお好きなのか、と。
今となっては、他の仕事が考えられません。性にあっていた、ということでしょうね。生まれ変わっても、この仕事くらいしか思いつかない。ただ時代も移り変わるから、今度生まれ変わった時、芝居がこの世にあるかどうかは分かりませんが。