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プロのプライドと温かなおかゆ 兼高かおるさんを悼む 映画監督・五十嵐匠さん寄稿

1979年、「世界の旅」が開始から20年を迎えた頃。2019年1月5日死去、90歳

 兼高さんが亡くなった。数年前の年賀状にはこう書かれていた。「もう来年から年賀状をやめます」。以来、兼高さんからの便りはなくなった。
 もう35年ほど前になるだろうか。私は「兼高かおる世界の旅」の制作進行として兼高さんとアラスカへ行った。ファーランデブーという冬の祭りを撮影するためだった。極寒の2月で、スタッフは兼高さんとカメラマンと私の3人。犬ぞり大会の取材では、犬好きの兼高さんがはしゃぐ姿が今でも目に焼き付いている。
 兼高さんはリポーター、通訳、ディレクター、プロデューサー、その全てをたった一人でこなした。「世界の旅」は現代の旅番組の先駆けであり、女性が一人で世界中を旅するという企画は、当時画期的なものだった。
 1週間ほどしたある日、撮影が無事に終わりホテルへ帰る途中だった。兼高さんの様子がおかしい。熱を測ると40度以上ある。「どうして言ってくれなかったんですか?!」。すると兼高さんはキッパリとこう答えた。「私の身体の具合は私だけのもの。あなたたちスタッフや撮影には関係のないことです」。31年続いた人気番組のその裏には、兼高さんのプロとしてのプライドとたゆまぬ努力があった。そして、それを決して人には見せないところが兼高さんなのだと思った。
 後年、故郷兵庫にできた「兼高かおる旅の資料館」の展示映像の編集を手伝ったことがある。徹夜続きのある日。私はご自宅の階下にあった編集室で一人作業していた。夜も白々明け始めた頃、私の目の前に女性の影があった。パジャマ姿の兼高さんが鍋を片手に立っていた。「夜食を持ってきました。食べなさい」。確か、そう言った。鍋にはおかゆらしきものが入っていた。「ありがとうございます」。私はおこげが少しついたそれを食べた。味はあまりしなかったが、温かかった。今思うにそれはおかゆの温かさというより、兼高さんのあたたかさだった。遠い存在だった兼高さんが少しだけ近くに来てくれたように感じた。うれしかった。
 兼高さんが笑って私によく言っていたことがある。
 「ショウ(私はそう呼ばれていた)、私は4年に1度しか年をとらないの。だって私の誕生日はうるう年の2月29日だもの」
 兼高さん。もしそうなら、もう少し生きていてほしかった。=朝日新聞2019年1月16日掲載