矢樹純の技巧にうなる「彼女たちの牙と舌」 先行きの見えない不安にからめとられる(第27回)

そのおもしろさは、かの名作にも似て。
と書こうとして、はたと気づいた。
矢樹純『彼女たちの牙と舌』(幻冬舎)をあの作品と比較することは、致命的なネタばらしになってしまうのではあるまいか。危ない危ない。
これだから矢樹純という作家は油断できないのである。この作家を特徴づけているのは、先の読めないプロットだ。冒頭の始まり方からしてAという分類の小説かと思って読み始めると、中盤あたりから違和感が生じてきて、やっぱりBだったのか、と判るというような。それがBに見せかけたCだったりもするので、本当に油断ができない。
『彼女たちの牙と舌』は、4人の女性が交代で視点人物となる物語だ。「第一話 離れたい女」で語り手〈私〉となる後藤衣織には、中学受験を目指す蒼祐という息子がいる。進学塾の保護者説明会で、幼稚園でこどもが同じクラスだった久代澄佳に話しかけられ、衣織は彼女を中心とした集まりに顔を出すようになる。
だが最近の衣織は、その集まりからできれば距離を置きたいと思うようになっていた。ある出来事が原因で、社交的な関係に気を遣うどころではなくなっていたのである。そもそも澄佳とは世界が違うとも感じている。澄佳はいわゆるインフルエンサーというやつで、ステルスマーケティングの法規制が整備される前は、ブログなどに宣伝記事を書いて大きな収入を得ていたそうである。住んでいるのもタワーマンションで、大きく開いた窓からはランドマークタワーやクイーンズタワーといった横浜みなとみらいの高層建造物が一望できる。
残りのママ友は、49歳で最年長の手島知絵と、唯一の30代で他の3人に対しては丁寧語で話す吉葉杏里である。知絵は訪問看護ステーションで働いていて、杏里は不動産会社でアルバイトをしている、ということが後でわかる。
ここまでの紹介を読んで、なるほど、これはいわゆるママ友の人間関係を書いた小説なのね、狭い共同体の中で起きる悲劇を描くものなのね、と合点した方は多いのではないかと思う。いや待て、しばし。私も早呑みこみしそうになったが、矢樹純がそんな単純な小説を書くはずがないのである。待て待て、もうちょっと読まないとわからないぞ。
用心して読んでいく。やはり早々に針路変更が行われた。どのくらい早いかと言うと、始まって12ページが過ぎたあたりだ。澄佳宅での集まりが終わっての帰り道、少し様子のおかしかった知絵が、衣織とふたりだけになったところでこんなことを言いだすのだ。
「衣織さん──お金、欲しくない?」
ほら来た。
ここから先の展開は書けない。予備知識なしに読んだほうが絶対おもしろいからである。だから話の流れではなく、要素を挙げて説明することにする。
第1に、これは犯罪小説である。こどもという守るべき者がいる女性たちが、犯罪に巻き込まれるのだ。それは暴力の脅威が直接的に迫ってくるようなものではなく、正体の見えない敵がいつの間にか背後に忍び寄っている、という犯罪だ。じわじわと来る。体の周りで見えない網が少しずつ絞られていき、気がついたらまったく身動きがとれなくなっていた、というような気持ちの悪い事態が進行していく。
この犯罪は、極めて現代的なものであるということも書いていいだろう。インターネットの存在が当たり前となった社会においては、過去では考えられないような形で人と人がつながるようになった。ただしつながった結果がいいものになるとは限らない。4人の女性たちが絡めとられるのは、そうした悪しき関係性の網なのである。どこにあるかわからない、誰もが捕まってしまうかもしれない危険な網だ。
犯罪の進行については書かないが、前述したとおり、視点人物を替えながらそれは綴られていく。これが第2の要素だ。各章が時系列に沿って単純につながっているのではなく、ある事柄については複数の視点が重複する。時間が早送りされる箇所もある。この減速と加速が作者の使う魔術なのである。情報提供のやり方はフェアなのだが、ところによっては時間の流れが早くて重要な箇所に目が留まりにくいように書かれている。逆に、これでもかというぐらい念を押して書かれている記述に裏読みできることがある、なんて箇所もある。文章を使って伏線を張る技巧のお手本を見ているようなもので、注意して読んでいても引っかかってしまうはずだ。矢樹がデビュー以来培ってきた技巧である。
第3は人物描写に関する要素だ。ここが実は小説としては肝なのである。主人公は4人いる。視点人物が替わるので、誰かひとりが他の3人について語ることになる。当然だが、Aから見えている他のB・C・Dは、彼女の位置から見えた人物像に過ぎない。BがCやD、またはAを見れば、また別の側面が浮かび上がってくるはずなのだ。視点交替を用いて複数の角度から描かれる人物像は必然的に立体的なものになる。前述したように第一話では衣織の目から見た、澄佳、知絵、杏里それぞれの人となりが語られるが、それらは後の章で覆されることになる。この逆転が続くため、読者はいつまでも新鮮な気持ちで各登場人物に接することができるのだ。
冒頭でうっかり題名を挙げかけた作品は、4半世紀以上前の小説である。こちらは人間の性格をひとつの傾向として書いていた。踏み入れるとずぶずぶと止まらなくなる底なし沼のようなもので、各人がそこに足を取られながら物語は続いていく。どうにもならず、身動きがとれなくなったところで剥き出しになるものは何か、という小説だったと思う。ああ、題名を書きたい。書かないけど。
『彼女たちの牙と舌』はそうではなく、人には表面からは窺い知ることの難しい内面があり、しかもそれは立体的であるため、自分自身にとっても不可視である領域が存在するということが書かれている。両者の違いは、視点を登場人物からどの程度離したところに置いているか、ということに起因するものだ。『彼女たちの牙と舌』では1人称〈私〉が使われているので、必然的に自分自身には見ることができない部分が発生するのである。これが描かれた犯罪の題材ともよく合っている。先行きが見えず、明日には我が身のことさえどうなっているかわからないという現代の不安も、この書き方によってよく表現されている。
思えば、私自身が私をわからない、というのは矢樹がずっと書き続けていることではないか。矢樹の小説家デビューは2012年だったが、しばらく不遇の時期があったが、2019年に上梓した短篇集『夫の骨』(祥伝社文庫)で第73回日本推理作家協会賞短編部門を受賞した。まず短篇で再評価が進み、それで慢心せずに挑戦した長篇でも読者が増え、という形で自らを再構築してきた作家なのである。
矢樹純作品を読むとたまらなく不安な気持ちにさせられる。今いる場所がどこか、そもそも自分は何者なのか、という足場を奪われるからで、2024年に発表した短篇集『血腐れ』(新潮文庫)ではホラーとミステリーを融合させるという試みにより、新たな不安の形式を作り出した。そこが頂点かと思ったが、新作でどんどん越えてくる。どこまで伸びていくかわからない作家だ。どれだけ不安にさせられるかも。