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水辺の被災地、極まった思い 佐伯一麦さん「山海記」

篠田英美撮影

いまこそが吊り橋の上にいるような危機かも

 仙台市に住む佐伯さんは、友人と共に訪れていた宮城県の作並温泉で被災した。本書にこう書く。
 〈津波の凄(すさ)まじい破壊力によって、沿岸部の巨大で堅牢な高圧線の鉄塔さえもがぐにゃりと折れ曲がっていた〉
 〈初盆用のひと回り大きな灯籠(とうろう)に、父、母、兄供養、と記し終えた同年代の男性がいて、胸を衝(つ)かれた〉
 「災害の国に住んでいることに無自覚だった」と、全国の水辺の被災地を訪ね始めた。締めくくりに選んだのが奈良県十津川村だ。1889年に大水害にみまわれ、東日本大震災と同じ2011年に紀伊半島大水害で被災している。
 物語は主人公の「彼」の語りで進む。「彼」とは佐伯さん自身。奈良県の大和八木から路線バスに乗り、天嶮(てんけん)の地である十津川村まで4時間半ほど。「彼」は車窓から崩壊の跡を見ながら、土地の歴史や地名の由来、過去に襲った幾多の厄災に思いを巡らせる。そのとき、どうしても浮かんでくるのが「3・11」の犠牲者の姿だった。
 〈津波の直接の犠牲者はもとより、その後、過労や心身を消耗させて亡くなった知人たちの霊のことを彼は思わずにはいられなかった〉
 「彼」の脳裏には、追憶と想念が交錯する。自身の病、幼いころの屈辱、さらに親友の自死……。小雪が舞う中、十津川村の吊(つ)り橋の上にたたずむ「彼」は「無音の繭の中」にいるような感覚に陥っていく。
 「身近な人の死で日常が毀損(きそん)される。それを描くのも小説。吊り橋の上で、様々な思いが極まった感がした。吊り橋に収斂(しゅうれん)していく感覚というのかな」
 次の場面は2年後の冬。同じ吊り橋の上だ。主人公の「彼」は「私」となって語る。「彼」から「私」へ。佐伯さんには、どんな思いがあったのか。
 「吊り橋の上で彼が立ち往生したように、小説も立ち往生したように思われた。どんな作品でも、どこかで行き詰まるんですよ。普通の物語にしたくないし、ならないから。小説として崩れていたり破れていたりしないと面白くないから『私』としてみた。手応えが生まれた瞬間でもあった」「自分の中で分裂した『私』を生きているのが現代人の時間。その時間をどういう形で書けるかと考えた」
 「私」は、こう語る。
 〈一生の間に一度は大きな厄災に遭うことを覚悟しなければならない、という思いを東日本大震災の後に強く抱くようになったが、図らずもそれを象徴している場所に、知らず知らずのうちに引き寄せられるようにしてやって来た〉
 〈最小限の補修を加えて弥縫(びほう)していくのが我々の暮らしであり、その都度、繋(つな)ぎ目繋ぎ目に、時間と記憶が滞る〉
 書名は中国古代の地理書『山海経(せんがいきょう)』から想を得た。「山と海は日本そのものとも言えるし、災害列島である日本の象徴でもある。そこに住んでいることそのものが、危機的な日々を送っているということだという意味合いを込めた」
 この小説を書くために、十津川村に6度赴いた。「春と夏と冬。それくらい行かないと、土地の空気感をつかめないから」
 あの日から、8年が過ぎた。「『3・11』後、今までの在り方を変えようという機運があったが、先送りになった感がある。例えば、原発に頼った暮らしがそう。もしかしたら、今こそが吊り橋の上にいるような危機かもしれない」(西秀治)」=朝日新聞2019年5月1日掲載