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「源氏物語」今と変わらぬ生の営み 現代語訳を終えて、角田光代さん寄稿

(C)KIKUKO USUYAMA

がっつりとまみれ 見えた幕の向こう

 源氏物語の現代語訳を依頼されたときは、荷の重い仕事だなあと思ったけれど、ものすごくたいへんなことだとは思っていなかった。三年で全訳を終えてほしいという依頼だったので、三年で終わるのだろうと思っていたし、古語から読み解くのではなく、古典文学全集などの現代語訳テキストがあるのだ。たとえるならば、目の前の広大な田畑と、そのずっと向こうに連なる山々といった光景をスケッチするような作業なのだろうと思っていた。無知ゆえに引き受けることができたのだ。

 実際にとりかかってみれば、三年なんかではとても終わらないし、何冊テキストがあろうが何種類すぐれた現代語訳があろうが、やっぱりとてもとてもたいへんな作業だった。スケッチなんてとんでもない、この手この脚で畑を掘って田んぼのぬかるみを進んで、遠くに見える山々を目指して歩み、登り、下る、そんな、がっつりとまみれる作業だった。

 がっつりとまみれてみれば、今まで読むだけでは見えなかったものが見えてくる。それまでの「読む」行為では、すべてのできごとは、幕の向こうで行われている印象だった。はっきりとは見えないけれど何か――些末(さまつ)なことか重要なことかわからないけれどとにかく起きている、としか思えなかった。訳すことは、まみれることは、その幕を乱暴に引きちぎって「見る」ことでもあった。何が起きているのか。起きたそのことは、さらに何を引き起こすのか。

     ◇

 下巻から振り返ってみれば、光源氏が若さと自信に満ちあふれていた上巻は、まるで神話の世界のようにまばゆくて、じょじょに彼が加齢していく中巻は、人々を巻きこんで運命が動いていくダイナミックさがあり、光が完全に消えてしまった下巻は、適度に善意を持ち適度に自己中心的な、不器用でぶざまな人間たちがそれぞれにうごめいている。上巻では遠い天上界のようだった世界も、下巻では下界へと移行したようで、だからこそ、そこで苦悩する人々は現代に生きる私たちにぐっと近づく。

 幕の向こうで行われていたのは、人が、それぞれの生を生きること、だった。ほしいものがすべて手に入っても、何ひとつ思うままにならなくても、どちらも年月を経過して終焉(しゅうえん)に向かう。それをすべて引き受けて、生きなければならない。そのこと自体は千年前も今も変わらない。――というのは、古典にも源氏物語にも素養も知識もない私の、もしかしたら強引に「今の私たち」に近づけすぎた読みかたかもしれない。時代ごとに解釈されて読まれ続けてきたこの長大な物語は、そんな私の読みかたをも許してくれる懐の広さを持つ。

     

 ところで、私は一帖(じょう)ずつパソコンのファイルに保存していたのだが、そろそろ最後の最後が見えてきたというころに、ほとんど終えかけていた帖のファイルがパソコン内から突如消えた。かなりの原稿量だったので、泣きそうになりながら必死でさがした。友人たちが検索方法をいろいろ教えてくれて、すべて試した。でも、ない。消えた。そのとき私がまず思ったのは、パソコン操作を誤ったのではないかということでもなく、外付けハードディスクになぜ保存しなかったのかということでもなく、「紫式部が消した」ということだった。訳が気に入らなくて訳しなおせと言っているのだと思った。それでその帖をまたあらたに訳しはじめ、そのうち、違う、訳しなおせではない、まだまだ終わってくれるな、もっとつきあいなさいと言っている、と思うに至った。数年後には、あのときの私はなんだかへんだったと笑うだろうけれど、でも、本気でそう思うくらいには、この物語と作者を近しく感じられたのだと思う。

様々な『源氏物語』

個性にじむ、数々の訳 装飾の大きい耽美な谷崎・意訳楽しむ田辺聖子

 『源氏物語』は古来、時代を代表する人気作家が現代語訳に挑戦してきた。

 さきがけは歌人の与謝野晶子(1913年)。抄訳だが後の現代語訳に大きな影響を与えた。谷崎潤一郎は戦争をはさみ、生涯に3度訳した。晶子が簡潔で引き締まった文体なら、谷崎は装飾の大きい耽美(たんび)な文体。戦後は、情念的でゆったり語る円地文子(73年)、軽やかに意訳を楽しむ田辺聖子(79年)、美しく読みやすい瀬戸内寂聴(98年)、いずれもベストセラーとなった。こたびの角田源氏は地の文から敬語を省き、文章を短く切った。駆け抜けるような読みやすさが特徴だ。

 変化球の極みは、アーサー・ウェイリーの英訳(33年)を毬矢まりえと森山恵が日本語に戻した再翻訳(2019年)。「ゲンジ」はランプを手にし、尼僧はカウチから起き上がる。六条御息所は「貴婦人(レディ)ロクジョウ」で、末摘花は「サフランの花」だ。

 同じ文でいくつかの訳を比較してみる。

 第4帖(じょう)「夕顔」で、枕元に現れた女が源氏に恨みをこぼす有名な場面。

 「こんな平凡な人をつれていらっしって愛撫(あいぶ)なさるのはあまりにひどい。恨めしい方」(晶子訳)

 「何の見どころもないこのような人をお連れなされて、御寵愛(ちょうあい)なさるとは、口惜しくも腹立たしゅう」(谷崎訳)

 「こんな平凡なつまらない女をおつれ歩きになって御寵愛なさるとは、あんまりです」(寂聴訳)

 「なぜこんな卑しい女(コモンガール)を裏道で拾ってきて、もてあそんでいるのでしょう。呆(あき)れたものですわね」(ウェイリー戻し訳)

 「こんななんということのない女をここに連れこんでかわいがっていらっしゃるなんて……。あんまりです」(角田訳)

 原文は同じだが、語る女の性質まで違ってみえる。紫式部に作家が溶け込み、それぞれの個性がにじみ出る。(中村真理子)=朝日新聞2020年2月26日掲載