講堂に集まった300人の生徒を前に、高樹さんはまず、日本文学の言葉のリズムについて語った。「まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき……」と、島崎藤村の詩「初恋」を朗読。「この五と七の組み合わせは、日本文学においてずっと続いてきた音律で、日本人の身体的な感覚に合っている」と説明した。『業平』も、5音と7音を意識してつづったという。
そして、同じく日本文学の特徴として「貴種流離」を挙げ、都から東国へ下った業平を「貴種流離のトップランナー」と評した。「高い身分の人が、権力から離れて落ちていく。このはかなさ、さみしさ、そして権力の中枢にいては見えてこなかった美。この無常観というものが、日本人は好きなのです」
続いて高樹さんは「雅って、何だと思いますか」と問いかけた。「簡単に言い換えはできないけれど、雅が生じる場面についてはお話しできるはず」といい、説明を始めた。
「手紙を出してもすぐには返ってこないし、相手の状況もわからない。わからないことがいっぱいあって、不安になる。そんな思うにまかせぬことを、この時代の人たちはじっと耐えていた。それは、強くて、大きくて、心が優しくないとできない。そういったところから、雅という状態が生まれる」
「今の私たちは、すぐに白黒付けようとするけれど、世の中に白と黒で出来ているものなんて何一つありません。何かあったときに『これは黒に近い灰色かな』と考えるようになると、みなさんの心に、ちょっとずつ雅が育っていくと思います」
愛する女性との逃避行に失敗した業平は、自身を「用なき者」と思い詰め、東下りの旅に出る。そして最終的には、再び京へ戻り、要職へと取り立てられる。高樹さんは、自身を「用なき者」とみる業平の姿が、深く胸に刺さったという。
「70歳になったら古典を書こう」と思っていた高樹さんは、6年前、平安初期の説話集「日本霊異記」を題材にしたミステリーを手がけた。「それが大失敗をして、絶版になってしまった。大ショックで、古典に進もうと思った最初の入り口が、ガチャンと切られてしまった気がした」。しかし、その後に取り組んだ『業平』は、多くの人に読んでもらえる本になった。「業平の挫折感と、再び都へのぼって自分の役目を果たした人生を、とても身近に感じます」
生徒たちに、こうメッセージを送った。「みなさんは、まだ自分を用なき者と思ったことはないかもしれません。でも、もしこの先、そのようなことがあれば、業平の東下りを思い出してください」
質疑応答では、途切れることなく手が上がった。「装丁のカバーの色は、冒頭の一文にある『若緑色に輝く春日野の丘』の場面から来ているのでしょうか」との質問に、高樹さんは「その通りです。近々出版される新書版も、同じ若緑色の表紙です」と答えた。
また「業平は浮気ばかりしているように見えて、中学生向けの内容じゃないように思いました」といった意見も。
高樹さんは「恋多き人というのは、情があふれた結果。業平は、心を尽くし尽くされる関係を、身分も性格も違う、それぞれの相手との間につくっていた。それは、人間能力が高くないとできないこと。現代から見れば『浮気ばかり』に見えるかもしれませんが、当時は結婚のシステムも違う。時代を踏まえて、この時代にこの人は、どういう能力があったのだろうと考えてみては」と語りかけた。
授業を終えて、生徒の一人は「小説を読んだときになじみやすい印象を受けて、その理由がわからなかったが、五、七のリズムの話をきいて腑に落ちた」と話した。
「たくさん質問をもらえて、うれしく、やりがいがあった」という高樹さんは「この時代の空気を伝えたいという気持ちがあって、小説を書きました。古典の世界にも、男がいて女がいて、歌を交わしていたというのを、勉強するのではなく、そこに入り込んで感じてもらえたら」と話していた。(松本紗知)