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積み上げることで浮かび上がる声 小沼理さん「1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい」

2022年8月15日(月)晴れ

 集中して仕事をしたかったのだけど、午前中は元気が出なくてあまり進まなかった。お昼は恋人と近所のお店でランチ。昼に入るのははじめてのお店だったけど、前菜でサラダや小さな鳥もも肉のテリーヌなどが出てきて豪華。メインのさばとトマトのペペロンチーノもおいしい。恋人は実質今日が夏休みの最終日なので、ゆったり過ごせてよかった。

 帰ってきても仕事モードにならず、本を読んだり、昼寝したり。15分の昼寝から起きるとようやく気分が切り替わり、夕方まで集中して作業。進捗としては6~7割くらい。遅れ気味だけど、明日頑張れば取り返せるはず。

 仕事を終えて、ようやく今日が終戦の日だったことを考える。最近、思想家の鶴見俊輔の社会運動などに関するエッセイをまとめた本『身ぶりとしての抵抗』を読んでいた。鶴見は戦時中、戦争反対の意志を持ちながら具体的な行動を何も取れなかったことを繰り返し悔いていた。

反対の意志を日記に書きつける。信用できると思う人にしゃべる。それ以上のことは何もできなかった。しようと思うのだが、指一本あがらなかった。その時の奇妙な感じは、いまもあざやかにおぼえている。戦争にたいする絶望感よりも、自分にたいする絶望感のほうが深かった。
 戦後数年たってから、指一本あがらないという自己意識はうすれてきた。しかし、この前の戦争当時のようなひどい時代になると、もう一度、ああいうふうに、体がすくんでしまうのではないかという恐怖感をぬぐいさることはできない。

 自分だったらどうだろう。今は明確に反対と言えるけれど、何かもっと大きなうねりが生まれた時にどうなるかわからない。動員される立場になった時、それでも反対したり、拒絶したりできるか。戦争をする者の論理を理解しようとしたり、自分の立場を正当化したりしてしまうのではないか。それは軸の強さの問題で、この2年半でいかに世論や社会の空気に影響を受けるかを痛感した自分は、絶対にそうならないと言える自信をなくしていた。

 傷つけられた苦しみからではなく、傷つけた苦しみからもっと学ぶことができるのではないかと考える。日本側が奪った命、侵略した地域、踏みつけた文化や歴史がある。傷つけられた苦しみを語り共有することも大切だけど、それは自分たちを免責し、正当化する働きを持ってしまう。傷つけた苦しみは責任を引き受けることで生まれるもので、その重さを知ることで食い止められるものがある。

 ロシアのウクライナ侵攻がはじまってもうすぐ半年。その痛ましさを想像する時、私は自然とウクライナ側に自分を重ねていたけれど、本当は攻撃を続けるロシア側に投影することもできるのだった。傷つける苦しみを知る側から何かを言うこともできたはずなのに、そうしなかった。そのことに、自分が「日本は戦争で被害を受けた」という歴史教育を受けてきた影響を感じ取る。

 夕飯はナスとごぼうと豚肉の味噌炒め、サラダ、みそ汁、トマトのだしびたしの残り。ほとんど昨日以前に作ったものなので楽ちん。ごぼうを薄切りにして炒め物に使ったのははじめてだったけど、好みの歯応えとうまみ。恋人からも好評で、また作ろうと思う。

2022年8月18日(木)晴れ

 連日の35度を超える猛暑のせいで、今日ぐらいでも過ごしやすいと感じる。実際は30度近くあるのでそれなりに暑いのだけど、冷房はつけなくても大丈夫。じんわり汗ばむのは心地よいようでも不快なようでもあるけど、アイスコーヒーはおいしい。午前中に執筆を進めて、お昼は冷蔵庫の余り物でナスと豚肉のにゅうめん。

 午後から取材で神保町。帰りに少しだけ古書店を覗く。お腹が減っているからなのかおいしそうな飲食店につい目が行き、休みを使ってぶらぶらしたいなあと思う。改装中の三省堂のはす向かいにあるスポーツ用品店のゼビオで、なくしてしまったプール用の耳栓を購入。昔はたまにこの建物の上階にあったレンタルCDショップのジャニスに行っていて、たしかその頃もスポーツ用品店が入っていたはずだけど素通りしていた。ジャニスは何年か前に閉店し、今は当時縁がないと思っていたスポーツ用品店で真剣に耳栓を選んでいる。その不思議さ。人も街も変わっていく。

 御茶ノ水駅まで歩いていく。カレー、蚊取り線香、立ち食いそば屋の温かいつゆ、黴っぽい冷房、それらのにおいが代わる代わる漂ってきてよかった。夏だった。

 電車で見たSNSでは週末のサマソニに出演するアーティストの情報がにぎやかに流れていく。以前ちょっと調べた時はもうチケットが売り切れていたし、買えたとしても状況的に行ったかどうかはわからないのだけど、それでも行きたかったなー、と思う。見たかったのはThe 1975とRina Sawayama。まあ行けないものは仕方ないので、音源を再生しまくる。「Frail State Of Mind」を聴いていると日記を書いている時のように落ち着いた気持ちになるけど、ビートで体は揺れる。「This Hell」はこの夏のアンセム。

 駅に着いて、スーパーでRina Sawayamaを聴きながら買い物していると写真家の宮本七生くんからLINE。なんとインタビュー取材の撮影で、Rinaのポートレートを撮れることになったとのこと!「バチバチの写真期待してます!」と返信。友人が活躍するのを聞くと自分までうれしくなってくる。

 夕飯の支度の前に休憩がてらニュースを読む。東京オリンピック大会組織委員会とそのスポンサーだったAOKIの贈賄、次々に出てくる旧統一教会(や、その他の宗教保守)の問題。ディス・ヘルですね……。

 大企業の利権が優先される現在のオリンピックにはずっと反対だったし、今後の大規模イベント(札幌五輪招致とか、大阪万博とか)の際に同様の不透明性やいびつな構造が残らないようにきちんと追求されてほしい。旧統一教会については連日報道が続いているけど、その「家族」観を見聞きするたびなんとも言えない気分に。

 保守的な家族観にはそもそも自分が適合しないし、価値観が変わらないことで窮屈に感じている人がたくさんいるんだから新しくしていったほうがいい。ずっとそう考えていたし、文章に書いたり友人と話す中で共有したりしてきたのだけど、同時にずっと「この考え方はやっぱりおかしいのかな」と、自信を持ちきれないところがあった。男と女が結婚して、女が姓を変えて、男は働き、女は子どもを育てながら家のことをする、それが圧倒的に「普通」なのかもしれない。自分は例外のようなケースを持ち出している視野の狭い人間なのかもしれない。その考えがいつも頭の片隅にあって、「いやそんなはずはない」と、一度勢いをつけて振り切ってからでないと語りはじめることができなかった。語り方にそれが滲んでいたかはわからないけれど、私自身としてはいつもその実感があった。

 だけど報道を繰り返し見る中で、明らかにおかしいのは、視野が狭いのはそっちじゃないか? と思うようになりつつある。自信のなさを引き剥がして、自分がおかしいのではないと感じられるようになりつつある。勢いをつけて振り切らなくても、自然に語りはじめることができるようになりつつある。そしてはっきり認識しつつある。これまでの自分がいかに損なわれていたか。