分かり合うことはできなくても
――物語は、主人公のホラウチリカ(通称ホーラ)が博物館でヴィーナス像のおしゃべり相手のアルバイトを始めるところから始まります。このユニークな設定はどこから着想されたんですか。
そもそもは、デパートでマネキンが服を着ていない状態でいるのを見て、「何を考えているんだろう」「話しかけたら何て答えてくれるのかな」というところから始まった気がします。
――しかも、おしゃべりはラテン語でというのがまた面白いです。なぜラテン語に?
社会でのコミュニケーションが得意でなくて、ふだんから日本語で話す相手がいない孤独な主人公が、今の実社会ではほぼ絶滅してしまった言葉で誰かと通じ合うことができたら面白いのではないかと思いました。ラテン語について調べ始めたら、言葉が複雑すぎて途中でやめようかとも思ったんですが(笑)。でも、そういうお互いにしか分からない言葉から生まれる密な関係があったら面白いですよね。
――コミュニケーションが苦手なホーラは、小学生のときに算数の授業で「平行」を習ったときから、他人には見えない「黄色いレインコート」をまとうようになります。決して交わることはない「平行」という概念を引き金に現れるようになった、他人と自分を隔てる「黄色いレインコート」。人と人は完全には交わらない、別の生き物なんだということを改めて突きつけられた感じがしました。この思いは、八木さんの中でも強いのでしょうか。
それはすごく思っています。執念のように、絶対に人と人が簡単に分かり合うような話にするものかとも思っていて(笑)。人とコミュニケーションをするなかで、「それ、わかる」という共感で距離が近づくようにも見えるんですけれど、そう言われると同時に「いや、分かられてたまるか」とも思うし、逆に自分だってどれだけ親しい人の話も完全には理解できていないと思っているんです。本当は「平行」よりも「ねじれの位置」がよかったんですけどね。小学生には難しすぎるかな、と。
今、私は会社員として雑誌編集の仕事をしながら小説を書いていて、雑誌の編集では「分かりやすさ」が求められ、実際にそうして作ることが多いのですが、小説を書くときは逆な気がします。私はプロットをしっかり作るタイプではなくて、2行後ぐらいは見えていても2ページ後はどうなるのか自分でも先が見えなくて困るくらいなんです(笑)。でも、逆に自分が予想していないものが出てくると「今日は書いてよかったな」と思います。それまで見ていなかったものや予想していなかったものが出ると、たとえそれが分かりやすいものでなくてもすごくうれしいんですよね。
――デビュー作の『空芯手帳』でも他者と関わる難しさや完全には分かり合えないことを描いていますが、本作では分かり合えないことを前提にその先を目指して書かれたように感じました。
前作で「分からない」というところが一つの終着点だとしたら、今作では「分からないけれど、どうしましょうか」という話になったような気がします。
今回の主人公・ホーラは女性ですが、ヴィーナスを小説や映画などに時々出てくるような「孤独な男性の主人公を受けとめ、世界を広げてくれる理想の女性」という存在にはしたくないと、書いている途中から考え始めました。ホーラにとって、ヴィーナスは単に自分が気持ちよくなれる都合のいい存在ではなく、むしろ自分の希望とは相容れない部分を持つ存在である「他者」であってほしいと。そう考えて書き進めた結果、孤独だったホーラがヴィーナス〈他者〉との交流を通じて、真の孤独とは何かを知り、それでも他者と一緒にいたいという話になったのではないかと思います。
この小説を書き終えた今、「寂しい」の反対は「寂しくない」ではなく、「寂しさを引き受ける」ことなのではないかと考えています。
自他の境界線の在り方を考える
――人は完全には分かり合うことができなくても、他者と関わっていきたい、関わらざるを得ない生き物でもあるというところがまた面白いですよね。とはいえ、人間関係の距離の取り方は人それぞれで、温度差もあります。ホーラが住むアパートの大家のセリコさんや隣室に住む少年・トウマくんなど、それぞれの距離感で接してくるのが絶妙でした。
「分かり合えない」という前提をどこまで踏まえられるかの違いかなと思うんですよね。他者にも自分と同じように考えたり感じたりしてほしいという人は、相手が自分と違うことに耐えられない人なのかなって。それが寂しくて、時には他者に強要させてしまうこともあるのかもしれないと思うんです。
場所や組織、人など、ある対象に対して自分が思うようには、他者は思っていないのかもしれない。相手に近寄っていきたいけれど、その領域は絶対に越えてはいけないし、強制してはいけないということは、人との関係の在り方で私が常々考えていることです。自他との境界線が厚すぎるとコミュニケーション不全になってしまいますけど、全くないというのも困る気がします。自分と同じように考えてくれるに違いないと、他者に過度に期待してしまうだろうし、逆に自他の区別がつくからこそ、他者を大事にしたい、守りたいという感情も出てくるものだと思うので。
――ホーラとヴィーナスの間に入ってくる博物館の学芸員・ハシバミというキャラクターも強烈です。ヴィーナスに対して愛情とも執着ともいえる気持ちで接し、ヴィーナスを自分の管理下にある博物館に閉じ込め続けようとします。「博物館」という箱は現代の社会や家族という構造のメタファーになっていて、そこを司るハシバミはまるで家父長制の象徴のような存在です。
そうですね。それに加えて、「出られない人、変われない人」だなと思いながら小説を書いていました。彼は「博物館」から出ることなく、自分を「管理する側」、ヴィーナスを「管理される側」と位置付けて、その構造が変わらないよう、ヴィーナスを閉じ込めようとしています。相手を束縛する心理には、いつかその人が自分のもとから離れていってしまうことへの不安や寂しさがあるのかもしれません。本当は自分も必要に応じて、今いる場所から外に出たり、変わったりすればいいんですけど。でも、そうする勇気がなくて、現状で支配下にある人を引き続き自分の都合のいいように管理したいという人は、家庭や会社、政治など現実の世界でも多いのではないかと思います。
小説を書くことは私の小さなレジスタンス
――個人的に印象に残ったセリフがあります。主人公が図書館で借りてきた詩集についてセリコさんと会話するシーンで、「普段は自分の言うことなんて聞いてもらえないから、詩にしたのかもしれません」というホーラの言葉。八木さんもそんな気持ちで小説を書いているのでしょうか。
他の作家の方には怒られてしまうかもしれませんが、自分が言ったことに周りの人がいつも耳を傾けてくれて幸せに過ごしている人は、詩や小説を書かないような気はしています。現実世界で本当に幸せだったら、あえてフィクションの世界をつくる必要はないだろうし。
私は社会人になって働くなかで小説を書きたいと思ったんですよね。ふだんは「おとなしい」「おっとりしている」と言われることが多いんですが、私のことを全部知っているわけでもないのに何でそういうふうに言うんだろうって。本当はそうじゃないものだってあるんだよって思いながら小説を書いている気がします。言葉と想像力によって彼らの目に見えない世界を築くこと、小説を書くということ自体が、小さな一つの抵抗だと思っています。
――最後に、今後の執筆予定について教えてください。
今年からの目標は「たくさん書く」です。もちろん質を確保しつつですけど。昨年、デビュー作の『空芯手帳』をさまざまな国で翻訳していただいて、海外の書評などで取り上げていただいた際に、自分の小説と一緒に並ぶ作品を見て、世界にはこんなに面白そうな作品があるんだなというのを目の当たりにしたんです。世界は広いんだということを改めて知りましたし、けっこう破天荒だったり突拍子もなかったりする設定の作品もあって、自分もあまり臆せずにいろいろなものを書いてみたいという気持ちが強くなりました。
でも、多分、どんな小説を書くにも「分かり合えない」ということは前提としてあり続けるかと思います。自分自身もそうなんですが、本って、まわりの人たちとはつながれないかもしれないけれど、本の中の世界とはつながることができるかもしれないと思って手に取るもののような気がするんです。だから、その先にある世界が誰もが分かり合えてハッピーであることが前提の世界だとは考えられなくて。
私自身、10代、20代と、多分もう誰かと分かり合ったりすることはないんだろうなと思っていました。それが、30歳で書いた小説が想像もしていなかった形で世界に広まって、あんなにも誰ともつながれないと思っていたのに、自分が行ったことさえない国の人たちが面白いと思ってくれることに驚いたし、うれしかったんですよね。誰かのために書きたいというわけではないんですけど、10代、20代のときに孤独を感じた自分が喜んでくれるようなものをこれからも書けたらいいなとは思っています。