――牧野は高知の裕福な商家に生まれます。独学で植物知識を身につけ、生涯集めた標本は40万点。どんな人物と捉えていますか。
明るい自然児ですね。幼い頃からの「好き」を生涯貫いて、白髪のおじいさんになっても自然児(笑)。野山に分け入って植物と対話していると幸せでウキウキして、心は花盛りなのです。
でもそのあとがある。採集した植物を丁寧に標本にし、細密で美しい植物画を描き、徹底的に分解して顕微鏡をのぞく。じつは、頭脳も手先も非常に緻密(ちみつ)な自然人です。研究のために買い集めた蔵書は4万5千冊ともいわれ、その知的好奇心は汲(く)めども尽きぬ泉のよう。いわば職人肌で、芸術家に近い学者ですね。
――20代で東京大学の植物学教室に出入りを許されます。その頃、植物誌を編纂(へんさん)する志も抱きます。
雑誌を出そうと思い立ったら、まず印刷を習うことから始めてしまうんですよね。あげくは石版印刷機まで買い込んで、土佐の実家に送っちゃう。でも本人は研究のためなら後先を考えずにお金をつぎ込む。30歳の頃にはついに実家も傾き、富太郎一家の大貧乏生活が始まります。
人生で30回も引っ越しを繰り返したのですが、夜逃げ同然のことも多かったはず。植物標本と書物が山のようにあって、しかも子だくさんなのに。このめちゃくちゃな金銭感覚は年齢を重ねても治らなくて、娘の結婚資金を作るのに出版社から印税を前借りするのですが、その帰りに本屋さんに寄って書物を買い込み、お財布はまたも空に。懲りない人なんです(笑)。
――東大では、学歴がないことで苦労します。
悲劇の学者のように言われたりもしますが、誰よりも現場、植物を知っているという自信が彼にはあった。大学の中での栄達は眼中になく、若者の頃から世界を見ていたんです。
20代の終わりに東大への出入りを禁じられ、すべてを捨ててロシアの植物学者のもとへ渡ろうとした事件があります。計画は頓挫したのですが、そのくだりを書いた時、一種の物狂いでもあると感じました。植物は彼にとって「生そのもの」だったと思うんです。
――牧野の功績についてどう考えますか。
たくさんありますが、一つ挙げるとすれば、採集旅行や講演会で日本中を回り、一般の人々に植物学を広く開放したことが大きいと思います。
いくつになっても無我夢中なんですよ。そんな彼の姿に誰もが魅了され、採集の楽しさ、名前を知るうれしさ、植物との対話の幸福を知ったと思うんです。富太郎は日本人に植物学の種まきをした人です。
――1500種を超える植物に学名をつけ、牧野日本植物図鑑はいまも植物ファンに愛されています。
昭和に入ると、一般にも名を知られるスター学者になりました。小学校中退なのに東大で教える! 当時の人々はさぞ胸のすく思いをしたことでしょう。
ただ、富さんは学歴はなくとも知の履歴は非常に厚いのです。旧幕時代の郷校で幼少期から学んでおり、本草学(東洋の薬物学)の知識、漢学の素養が彼の根っこです。英語に精通していたのも、10歳を過ぎた頃から学んでいたからです。
――ドラマに期待することは。
富さんの不屈の魂、そして植物学の面白さがどう描かれるのか、とても楽しみにしています。さらに申せば、日本人が身近な自然に気持ちを向けるきっかけになればうれしいです。(聞き手・蜷川大介)=朝日新聞2023年3月29日掲載