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「上海灯蛾」書評 熱き血と悲しみと 人間の物語

評者: 澤田瞳子 / 朝⽇新聞掲載:2023年05月20日
上海灯蛾 著者:上田早夕里 出版社:双葉社 ジャンル:小説

ISBN: 9784575246025
発売⽇: 2023/03/23
サイズ: 20cm/537p

「上海灯蛾」 [著]上田早夕里

 1930年代の中国・上海。様々な人種が交錯する租界で立身を目論(もくろ)む日本人・吾郷(あごう)次郎は、謎の女・ユキヱが持ち込んだ阿片(あへん)芥子(けし)を通じ、数多(あまた)の野心の坩堝(るつぼ)へ巻き込まれていく。上海を陰で牛耳る秘密結社・青幇(チンパン)、大陸支配の野望を抱く関東軍、そして「最(ズイ)」の名前を与えられた最上級の阿片芥子。絢爛(けんらん)たる灯火に引き寄せられた人々の生き様は酷薄で、それゆえにどこか悲しい。
 これまでに筆者は同じく上海を舞台に、細菌兵器を主題とする『破滅の王』、知られざる日中和平交渉を描く『ヘーゼルの密書』を上梓(じょうし)しており、本作は戦時上海3部作の最終巻。ただ過去の2作がそれぞれ動乱の時代を俯瞰(ふかん)するエリートたちの物語だったのに比べ、本作の登場人物はみな混沌(こんとん)の上海の権化の如(ごと)き者ばかりだ。極貧の小作に生まれ、富める者を羨(うらや)みながら郷里の寒村を捨てた主人公。貧民として上海に流れ着き、妹の縁故で汚れ仕事に手を染めた楊直。日本人の父とロシア人の母の間に生まれた苦労を背負い、満州に新設される国立大学に学ぶべく海を渡った伊沢。彼らはいずれも権力と血と欲望に侵されて変容を強いられるが、身も凍る行為に手を染めながらも、その心の底にはそろって自らの来し方に起因する熱い血潮がたぎり続けている。そんな熱く凍えた彼らの葛藤が、本作をただのピカレスク小説ではなく、混沌の時代に生きた人間の物語へと昇華させている。
 「おれたち、次は獣に生まれてこような。獣には国籍も民族の違いも存在しない」
 主人公が漏らすこの感慨には、人がどんな状況下でも捨てられぬ人間性がにじむ。そして友にも同胞にもなり得なかった彼らに共通する悲しみには、人間とは何かという根源的な問いを改めて考えずにはいられない。混沌の時代を通じ、我々の本質にすら迫る極上のエンターテインメント小説である。
    ◇
うえだ・さゆり 作家。2011年、『華竜の宮』で日本SF大賞。著書に『獣たちの海』『播磨国妖綺譚』など。