小学生の頃、虫が大好きだった。僕だけでなく、周りの友達も夏になると、特にカブトムシとクワガタに夢中になった。
カブトムシは、森に成虫を採りに行くこともしたが、幼虫から育てることも流行った。秋に近所の神社の境内の地面を掘ると、白くて大きなカブトムシの幼虫がザクザク出てきた。それらをせっせと掘り集めては、木箱に入れて育てるのだ。木箱には土が入れてあり、たまに霧をふりかけて湿らせる。何匹もの幼虫がだんだん土の中で大きくなってゆき、やがて蛹になる。そうして夏が来ると、蛹から脱皮して成虫になったカブトムシが、木箱に溢れかえった。
ある日、木箱のなかがガサゴソとやたら騒がしいなと思って蓋を取ると、成虫になった黒光りするカブトムシが出来上がっているのである。カップラーメンは3分でできあがるけれど、カブトムシを幼虫から成虫まで育てるのには何カ月もかかる。卵から育てると、さらに時間がかかる。実に根気が必要な飼育だが、その分、無事に成虫になったときの感動は大きい。あんなイモムシみたいなものが硬い殻と立派な角を持ったカブトムシに変身するのである。
甲虫しゆうしゆう啼くをもてあそぶ 橋本多佳子
確かにこの句のようにカブトムシは啼くのか、体のどこかを鳴らすような音を立てる。今から思えば、妙に切ない鳴き声である。森に帰してくれという嘆きにも聞こえる。だが、子どもの頃はそんなのおかまいなしだ。この句の作者はちょっと意地悪な感じがする。もてあそんで楽しんでいるようだ。
カブトムシと並んでクワガタも僕らを虜にした。クワガタは種類があるので仲間内でランク付けされていた。コクワガタは名前の通り小型で、一番ポピュラーなので飼っていて当り前。友達が持っていても羨ましいとも思わなかった。しかしミヤマクワガタ、ノコギリクワガタになると話は違ってくる。どちらもコクワガタよりもガタイが大きく、フォルムも流線形となって、急に少年たちの眼を爛々と輝かせる魅力を放ちはじめる。
ミヤマクワガタは鍬の形がかっこいい。頭部には鰓のように張り出した突起があり、それがミヤマクワガタの面構えを際立たせる。まるで若武者のような佇まいだ。鍬の部分を指で突くと、だんだんと体全体を持ち上げて威嚇してくる。なんだ、なんだといきり立ってくる。その仕種がまた僕らの胸を躍らせるのだった。でかいミヤマクワガタの雄を持っている友達には心底嫉妬したものだ。
ノコギリクワガタの鍬は、ミヤマクワガタの鍬よりもギザギザが細かい。まさに鋸の刃のように鋭く、どこかギャングのような佇まいをしている。だから、ミヤマクワガタを手にする時よりも、ノコギリクワガタを持つ時のほうが緊張した。たまに赤みがかった体のノコギリクワガタがいて、まるで赤い彗星シャアみたいなクールさが漂っていた。そんなノコギリクワガタを掌に自慢げに乗せている友達を見ると、やっぱり嫉妬した。
僕らのなかでクワガタの一番のアイドルはヒラタクワガタであった。ミヤマやノコギリのように装飾的でないヒラタクワガタなのに、なぜあんなに惹かれたのか。それはシンプルな美しさがフォルムに宿っているからだろう。体色の黒がシックで、佇まいも落ち着いた静けさを漂わせている。悟りを開いた高僧のような雰囲気だ。体長が大きければ大きいほど、纏う静謐さが増す感じで、まさに尊い存在となる。そしてもう一つ魅力的なのは、ミヤマやノコギリの成虫はその夏限りで死んでしまうが、ヒラタクワガタは越冬し3年以上も生きる個体があるということだ。その生命力の強さが、ヒラタクワガタの美しさにも通じているのかもしれない。
ヒラタクワガタを手に入れると、特に大事にしたので、その体に付いているダニをよく爪楊枝を使って取ったものである。ヒラタクワガタは手に持っても至って静かにしている。カブトムシのように「しゆうしゆう」と鳴かない。ジタバタしない。肝が据わっているのだ。その体を引っくり返して、ダニを見つけると、爪楊枝で弾き飛ばすのである。大好きなヒラタクワガタの手入れをしている折の至福の時間。虫捕りや魚釣りや野球やドッチボールやキックボールなど、毎日アクティブに遊びまわっていた少年だった僕の、静かなダニ取りの時間は、今はもう遥かに遠い。いつの間にか、少年だった自分や少年だった頃の昭和と、こんなにも隔たってしまった。
今年の夏の夜、網戸にばちん! とぶつかるものがあったので開けてみると、雄のノコギリクワガタがいた。久しぶりに見たものだから、捕まえるとき、胸が高鳴り過ぎて、指が震えた。この感触、このフォルム……ノコギリクワガタを見つめる僕の眼差しだけは、少年に還っていたはずである。老眼の入った目を見開いて、僕はじっと見つめた。ノコギリクワガタを持つ感触を通して、懐かしさがこみ上げてくる。少年の自分が駆けてくる。
野性のノコギリクワガタを手にするのは、実に30年以上ぶりであった。