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市川沙央・村上春樹・村田喜代子…あの世とこの世、思いめぐらせ 2023年の文芸回顧

(写真左から)京極夏彦さん、市川沙央さん

帰還した者・あいだにいる者、人が見ている世界は

 大江健三郎が3月に88歳で亡くなった。戦後日本を代表する偉大な作家の訃報(ふほう)に、ひとつの時代の終わりを告げる声も聞かれた。だが、終わりはつねに、別の何かの始まりでもある。大江自身については9月、母校の東京大に研究拠点「大江健三郎文庫」が誕生。書き直しの跡が読み取れる自筆原稿や校正刷りをとおして、作品に新たな照明をあてる準備がととのった。

 文芸誌の「文学界」が表紙に「追悼・大江健三郎」と刻んだ5月号、それと並ぶかたちで掲載されたのが、市川沙央のデビュー作「ハンチバック」(文芸春秋)だった。

 生まれつき筋力が低下する難病を患い、寝たきり同然で暮らす女が主人公。実生活を真面目で寡黙な障害者でとおす彼女はしかし、SNSに変名で〈下品で幼稚な妄言〉を書き散らすことがやめられない。〈蓮(はす)のまわりの泥みたいな、ぐちゃぐちゃでびちゃびちゃの糸を引く沼から生まれる言葉ども。だけど泥がなければ蓮は生きられない〉

 上半期の芥川賞を受賞し、「読書バリアフリー」をめぐって社会的な議論を呼んだ本作は、「*」をはさんだ結末部分で唐突に語り手を代え、風俗店で働く女と客とのやり取りを描いた幕引きでも賛否が分かれた。思い出されるのは、大江が障害のある長男の誕生に触発されて書いた「個人的な体験」でも、「*」をはさんで明るい結末が用意されていたことだ。

 もちろん、小説なのだから読み方は一通りではない。そのうえで、いずれもが、あり得たかもしれない、もうひとつの世界を描いていたと解釈することもできるだろう。ままならない「この世」で生きるしかない私たちには、たとえ想像の世界であっても「あの世」が必要なのだ。

 あの世とこの世。ふたつの世界に思いをめぐらせた今年は、「行きて帰りし物語」が印象に残る年でもあった。

 4月に刊行された村上春樹「街とその不確かな壁」(新潮社)では、高い壁に囲まれた静かな街と、そこから帰還したものの、〈この現実が私のための現実ではないという肌身の感覚〉にさいなまれる男の姿が描かれた。また、7月に公開された宮崎駿の映画「君たちはどう生きるか」では、異界での冒険を終えた少年が、屋敷内の塔につながる扉から現世に帰ってきた。

 あちらとこちらを隔てるものとして、一方では壁が、もう一方では扉が重要なモチーフとなっていた。けれども、〈死後の世界と現世との境(さか)いにあるのは決して壁や扉の類いではない〉〈ただの坂、ヨモツヒラサカ――黄泉平坂(よもつひらさか)――である〉と、古事記の神話を現代日本に重ねてみせたのが古川日出男「の、すべて」(講談社)だった。物語の中心人物である2世政治家は、演説中の凶刃に倒れるも黄泉(よみ)下りを経て復活を遂げる。

 同じ古事記によりながら、戦中のアメリカを舞台にした村田喜代子「新古事記」(講談社)が描くのは、人里離れた山の頂上に作られた「あの世」だった。そこは軍の機密で「Y地」と呼ばれ、〈誰にも知られてはいけない場所〉とされている。鉄条網に囲まれた施設のなかで、科学者たちは原子爆弾の開発に向けて研究を続けるが、彼らの妻たちには何も知らされない。

 施設の外で暮らす主人公のアデラは、ときおり響く大きな爆発音や、婚約者ベンジャミンとの会話に真実を垣間見るが、何事にも感付くことはできない、と自らに言い聞かせる。〈あたしはここにある現実の世界にいて、あたしから見るとベンはまるで霧がかかった、ここにはないフィクションの世界の住人だから〉

 見たくないものを見ないのが人間の持って生まれた弱さなら、見たいものだけを見てしまうのも表裏一体の弱さだろう。あの世とこの世のあいだにいる妖怪たちを題名に冠す京極夏彦「百鬼夜行」シリーズ、その17年ぶりの長編だった「ぬえ(ぬえ)の碑(いしぶみ)」(講談社)もまた、物語の中心に原爆をめぐる謎を据えていた。

 舞台は戦後数年が経った昭和29年。日光で崖から転落死した植物学者、現場近くで妖しく光る石碑の記憶、旧日本軍による原爆製造計画のうわさ――。これらを組み合わせた果てに、学者の息子は「荒唐無稽」な「真実」を見てしまう。〈人は信じられないものを発見してしまった時、信じたくないが故に信じてしまうものなのかもしれない〉。作中に書かれたこの逆説を、忘れずにいたい。(山崎聡)=朝日新聞2023年12月20日掲載

私の3点

古川日出男 作家

  1. 町屋良平「生きる演技」(「文芸」秋号)
  2. 乗代雄介「それは誠」(文芸春秋)
  3. 長嶋有「トゥデイズ」(講談社)

 読後、幾月経ってもその物語(の世界)の味わいが持続する作品群。(1)内の、実は存在していない人物に呼びかけたい衝動がいまも残る。(2)は結局今年三度読んだが鮮烈感は落ちない。(3)にはこの現代の厳しさより、むしろ普遍の温かさの方が描かれていて印象深い。

永井紗耶子 小説家

  1. 川越宗一「パシヨン」(PHP研究所)
  2. 塩田武士「存在のすべてを」(朝日新聞出版)
  3. 高野秀行「イラク水滸伝」(文芸春秋)

 (1)禁教の時代、司祭として帰国した小西マンショを中心に、信仰とは、生きるとはを問う歴史小説。(2)30年前の未解決誘拐事件を追う記者が、真相を辿(たど)るミステリー小説。(3)イラクの巨大湿地帯から見える、この国の古代から現代までに肉迫したノンフィクション。

木原善彦 翻訳者

  1. ティム・オブライエン「戦争に行った父から、愛する息子たちへ」(上岡伸雄、野村幸輝訳、作品社)
  2. コラム・マッキャン「無限角形 1001の砂漠の断章」(栩木〈とちぎ〉玲子訳、早川書房)
  3. モアメド・ムブガル・サール「人類の深奥に秘められた記憶」(野崎歓訳、集英社)

 複雑極まる問題を語ろうとする三種の努力。(1)はたとえば、戦争を「集団殺戮(さつりく)(子供を含めて)」と呼ぶことを提案。その率直さが胸に迫る。(2)は無数の補助線を引くことでパレスチナ問題に接近しようとする。(3)は鵺(ぬえ)のような植民地主義と格闘する野心的小説。