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崖っぷちボクサーの「狂気の挑戦」を切り取った9カ月 「一八〇秒の熱量」山本草介さん×米澤重隆さん対談

山本草介さん(左)と米澤重隆さん=家老芳美撮影

ガスが止まっても原稿を書き続けた

――お二人はお会いするのは久々でしょうか。

山本草介さん(以下、山本):半年ぶりぐらいですかね。

米澤重隆さん(以下、米澤):会うのは久しぶりですけど、「こんなことがあったよ」という連絡はけっこう頻繁にはしてますね。山本さんからは、取材が終わったら取材対象の人とはあまり会わないと聞いてたんですけど……。

山本:なんだか縁が続いて、何度も飲みに行ってます。

――単行本(ハードカバー)が出版されたのが2020年の7月。山本さんが米澤さんに密着していたのは2013年ですから、だいぶ時間が経ってからの出版となったのですね。

山本:もともとドキュメンタリーのメディアミックスのような形で雑誌に文章を書いてみない? というような話だったんですが、僕が書くのがとにかく遅くて……。そのうちにその話はなくなったんです。

 でも、書き始めてみたら止められなくて。奥さんには「仕事行ってくるわ」って言って、喫茶店に行って1日中原稿を書く……みたいなことをやってました。1行も書けない日も結構あったんですけど、それはそれで「明日また書けるかもしれないし」と、楽しかったんです。

 けど、どこに出すわけでもないし、まったくもって無駄なことなんですよ。そうこうしてるうちに貯金もなくなり、ガスが止まり、でも奥さんは妊娠していたので子供が生まれるしで、本当に迷惑をかけたなと思います(苦笑)。ガスが止まった時に七輪で1時間半かけてみそ汁を作ったんですが、めちゃくちゃ白々しい目で見られてました。

 原稿が完成して、米澤さんと当時関わったテレビ関係者の方に見てもらったんですが、米澤さんは「懐かしいっすねー」ぐらいの反応でしたね。

米澤:そうでしたっけ(笑)。

山本:そうですよ。で、原稿の束を押し入れに入れておいたんです。そしたら何年かしたら映像プロデューサーの方が「米澤さんの物語を映画にしたいから話を聞かせてくれ」と連絡してきて。その時に「こんな原稿がありますよ」と渡したら、それが双葉社さんに行くことになったんです。

 それで編集担当の人がものすごく興味を持ってくれて、書籍化することになって……なんだか不思議な縁が繋がっていった感じですね。

山本草介さん

年齢は関係ない、ただ「強くなりたい」

――この書籍に書かれているのは「崖っぷちボクサー」である米澤さんの挑戦の記録ですが、36歳の米澤さんが37歳までにチャンピオンになることを目指す、とはじめから無謀でしかない挑戦に感じます。そもそも米澤さんがボクシングを始められた経緯はどういったものだったんでしょうか。

米澤:もともと学生時代からレスリングをやっていて、その後総合格闘技に転身したんです。でもレスリング出身なので、どうにも打撃が弱くて……。それを強化したいとボクシングを始めることにしたんです。

 はじめは当時住んでいた板橋のジムに通おうと思っていたんですが、道に迷ってしまって見つけられなくて。高田馬場に勤めていたので「お、この近くにもあるじゃん」と青木ボクシングジムの門を叩きました。

 当時僕は30歳でした。その時ちょうどプロテストの年齢制限が30歳から32歳までになり、さらに0.7以上という視力制限も撤廃されました。受けられるなら受けよう、とプロテストを受けて、33歳でプロデビューしました。

――その時から「チャンピオンになりたい」と思っていたんでしょうか。

米澤:僕は八千代松陰高校でレスリング部だったんですが、その時の顧問から「やるからには日本一になれ」と叩き込まれていました。だからボクシングでプロになった時も、わかりやすく級やランキングがあったこともあり、上を目指そうと思いましたね。

山本:米澤さんのすごいところは、もう30歳超えているから……とかまったく考えていないところなんですよ。純粋にそう考えられるのがすごいと思います。

――もともとは違う方が米澤さんに取材依頼をして、企画を作っていたと本の冒頭にありましたね。

米澤:そうなんです。当時、プロボクサーとしてブログを書いていて、2012年の年末に「テレビの取材をしたい」と番組制作会社からメールが来ていたんです。はじめは冗談では? と思ったんですけど、本当だとわかって舞い上がりましたね(笑)。ボクシングって興行でもあるので、テレビに出て有名になったらチケットが売れる! という気持ちもありました。

 それで、メールをくれた女性の方と会長(有吉将之会長)とジム近くの喫茶店でお話をして。「取材が決まりました」といざ始まったら、全然違う人が来たんです(笑)。

山本:僕は当時違う企画を出していたんですが、いきなり「こっちに行ってくれ」とボクシングを取材することになって。正直、ボクシングには興味もなかったし、試合を見たことすらありませんでした。ジムに入ったら、まずメガネは曇るし、汗臭いしでびっくりしましたよ。

米澤:僕はテレビの取材って、カメラマンがいて、他の方もいて、という感じなのかと思ったら、山本さんが1人でカメラを回しながらずっと撮っているので、それにもびっくりしました。

山本:初日はジムで撮らせてもらったんですけど、その時は米澤さんは全然しゃべらないんですよ。でも帰りに家……というか、彼女の部屋ですけど、そこに5kmぐらいの道のりを歩いて帰る時はめちゃくちゃしゃべるので、いきなりギャップがありました。

米澤:だって、ジムではしゃべることないですよ。練習してる時に会長やトレーナーとべらべらしゃべるのも違うと思いましたし。でも普段はおしゃべりなんです(笑)。

――密着取材されることに、わずらわしさを感じたりしたことはなかったんですか。

米澤:それは全然ないですね! でも、「ここまで密着するんだ!」とは思いました。僕の働いていたコールセンターでの夜勤の時にも密着されましたし。あと、夜勤明けで帰って僕が布団で寝るところまでを撮られるんですが、結局布団に入ったところを撮っても、山本さんが帰ったら鍵を閉めなきゃいけないんですよ。だからまた布団から出なきゃいけないのだけはちょっとめんどくさいなとは思ってました。

山本:こっちもかなり体はきつかったですよ。米澤さんはプロボクサーとはいえ、基本はフルタイムで働いて、夜勤もあって。昼夜めちゃくちゃになる時もありました。

米澤:あと、密着されていることで、自分の考えを整理できるようなところはありました。1人で歩いてたら頭の中で考えているようなことも、口に出して山本さんとしゃべるじゃないですか。

山本:それはあるかもしれないね。ジムの練習帰りは必ず5km歩いていたので、その時に本当にいろんなことを話しました。まあ米澤さんは歩くのがめちゃくちゃ速くて、カメラがブレないようについていくのが大変でしたけど(笑)。

米澤重隆さん

本気の挑戦に心打たれ、次第に入れ込むように

――山本さんは当初、客観的な目線で米澤さんのことを見ていたと思います。それが単に取材の枠を超えて、米澤さんに入れ込んできたのはどのタイミングですか。

山本:ドトールコーヒーで寝ているのを見た時と、彼女のみな子さんに「(米澤さんは)チャンピオンになれますかね?」と聞いたら、一点の曇りもないまなざしで「なれます!」と言われた時ですね。ショックを受けました。常識的に考えたら、36歳で5勝6敗2分の成績だったら厳しいんじゃないの? と思います。でも米澤さんは、ビッグマウスで言ってるのではなく、本気でそう思っているんだなとわかったんです。

 自分も米澤さんと同い年の36歳で、常識人間というかつまらない奴になってきてるな、と思うところはあったんです。「いろんなものを諦めて、それを受け入れていくのが大人だ」なんて思い始めていました。でも米澤さんはそれと真逆のことをしてました。

米澤:僕は年齢も気にしてませんでしたし、諦める理由がなかったんですよ。37歳の定年がなかったらダラダラ続けていたかもしれないと思います。でも、ドトールで寝てたのは今思うと迷惑だったなとは思います(笑)。

山本:本当ですよ! 夜勤明けで、どこにいくのかと思ったらドトールに行って、コーヒーだけ頼んで、そこで座ったまま寝るっていう。

米澤:あの時はそれが最適だと思ってたんです。夜勤のあと家に帰って寝ちゃうと、夜まで寝てしまって練習に行けない。でもどこかで仮眠を取りたい、と思ったらジムのすぐ近くのドトールで練習が始まるまで仮眠するのが一番いいなと思って……。

山本:でかい男がね。絶対覚えられてましたよ(笑)。

米澤:本当ですよね。でも、勝つためにはどうすればいいかって考えたら、練習を休まないことが一番だなと思っていたんです。

――密着は9カ月でしたが、どんどん試合が決まり、そのたびに米澤さんが泥臭く勝って、と何かの力に導かれているような感じも受けました。

米澤:会長がとにかくすごくて、無理そうなマッチメイクを実現させるんですよ。だから僕は会長を信じてついていけばなんとかなるのかなとは思っていました。

山本:まずあの会長が不思議な人ですよ(笑)。タイでのプロモーターの経験もあったみたいで、タイ語がペラペラで。試合を組む時にもその経験を存分に生かしてましたね。

米澤:導かれているような感じといえば、最初にジムを選ぶ時に道に迷った話もしましたが、ボクシングジムって、興行権を持っているジムと、持っていないジムがあるんです。興行権がないとそもそも試合を組めない。青木ジムは興行権を持っているジムだったので、そこにたまたま入ったというのも巡り合わせなんだなと思います。

山本:有吉会長以外に、こんなに無茶に試合を組む人はいないですよ。それに、何度考えても米澤さんに入れ込む理由がわからないんです。金は食う、華はない、すぐに定年も来ちゃうから未来はない、強いパンチもないし、試合は地味だし……。でも不思議なことに、いつの間にか自分も米澤さんに入れ込んでいってたんです。本当に謎だなと思います。

本を書いて気づかされた自由な表現方法

――でもたしかに、本を読んでいるとこちらも応援したくなるというか、ともに入れ込んでいく感じを追体験できました。

山本:テレビでも通常3回のところ、反響が大きくて11回も放送されたんですが、本を書いてみるとまた映像とは全然違うんだなということがわかりました。映像だと地味すぎて「これ放送できないよ……」というぐらいの感じなんですが、何十回と見返していると「このパンチにも意味があるんだな」と気づいていったり、僕自身がどうして米澤というボクサーにのめり込んでしまったのか、心の中を掘り続ける時間でもあって・・・・・・。そんなことは初めての体験でしたが、言葉を通して対象と向き合うと、すごく広がっていく感じがして、一人で盛り上がっていました。言葉ってすごいんだなって。

 けど、最初にも言いましたけどこれを本にするという話になった時は、「本気か?」と思いましたよ。著者も無名、米澤さんも無名というか、テレビが終わってかなりの時間が経ってましたからね。

――しかも初の著作は第52回大宅壮一ノンフィクション賞、第20回新潮ドキュメント賞にそれぞれノミネートされました。

山本:「日本文学振興会」というところから「あなたの作品が大宅賞にノミネートされました」とメールが来たんですが、完全にイタズラだと思ったんですよ(笑)。あとから本物だとわかってびっくりしました。けれどこのノミネートはすごく自信になりました。「一生懸命書けばいいんだな。また書きたい」と思わせてくれました。

 この原稿を書いていた時、誰のためでもなく自分のために書いたんです。それって、テレビをやっているとなかなか持てない感覚なんです。本はすごく自由。信じたものをやる感覚って、悪くないなと思えました。それこそ、「米澤さんが無謀な挑戦をしたんだから、自分も訳のわからない挑戦をするぞ!」と書いていた時は思っていたかもしれません。

――今回文庫化にあたり、読み直してみていかがでしたか。

山本:正直、覚えていないこともあったりして新鮮な気持ちで読み返しました。しかし、人生を犠牲にしてよく書いたな……とは思います。取材の途中で、有吉会長に「山本さんも頭おかしくなってるから」って言われたことがあるんですけど、改めてそうかもなと思いました。

米澤:自分のことながらよくやってたよな、とは思います。あとはたまに「俺いいこと言ってるわ!」と思って、励まされたりもしています(笑)。こうやって本にしてくれたことで、やってきたことが形に残ったのはすごくありがたいことだなと思います。親孝行できたかなと思いますね。

山本:いやほんと、僕もこんな経験をさせてもらって米澤さんに感謝です。また飲みに行きましょう!