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富永京子さん『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史』インタビュー 若者は、本当にしらけていたのか?

富永京子さん=北原千恵美撮影

当時の若者文化に多大な影響

「ビックリハウス」とは、1974年から85年まで発行された日本の伝説的なサブカルチャー雑誌だ。ユーモアやパロディーをモットーにした投稿主体の雑誌で、中心読者層は10代後半。世間の様々な事象を、政治性や社会性からはほど遠い立ち位置から、編集者と読者が一体になってパロディーで笑い飛ばし、当時の若者文化に多大な影響を与えたといわれている。富永さんが生まれる前年に休刊した。

「私は以前、深夜ラジオに投稿していたことがあったのですが、私より上のハガキ職人の人々がよく言及した雑誌に『ビックリハウス』がありました。なので、雑誌自体は知っていました。2017年に東京ステーションギャラリーで開催されていた『パロディ、二重の声――日本の一九七〇年代前後左右』という企画展を見に行った時に、この雑誌が展示されていて興味を持ちました」

「ビックリハウス」読者は競うようにして投稿し、熱くなっていた。社会運動の研究をしていた富永さんは、60年代の社会運動が終わったからといって、70〜80年代の若者が急にしらけてしまった、という定説にかねてから疑問を感じていたという。富永さんはこの雑誌の読者共同体は、まるで自分がいたかのように近く感じられたとも話す。

「ラジオでも、パーソナリティーとリスナーの間で、彼らにしかわからない内向きな空間が形成されることがありますが、それと似たようなものを感じました。それに、『ビックリハウス』では、『私ブスだからさぁ』『行き遅れだし』といった、自虐的なコミュニケーションがあったり、大人からすればくだらないかもしれない、趣味的なトピックでも熱く語れたりする。一方で、論争が紛糾すると『まあ、人それぞれだからね』といった形でお茶を濁してしまう、というのは、その20年後に若者時代を過ごした自分にとっても、理解できるところがありました」

全130冊をテキスト化

 70〜80年代は、「雑誌の時代」と呼ばれるほど、数多くの雑誌が創刊された。「ビックリハウス」のようなサブカル誌のジャンルでは、より政治的・対抗的な活動を特集する「面白半分」「話の特集」「宝島」などといった雑誌があった。そんな中、なぜ「ビックリハウス」を選んだのだろうか?

「正直なことをいうと、『ビックリハウス』をある程度検討したあとに、『宝島』などを渉猟する機会が出てきたというのはあります。ただ、結果的には政治的なことから一番遠かった『ビックリハウス』を対象としてよかったと思っています。もしかしたら『話の特集』を研究対象に選んでいたらもっと早く書けたかもしれませんが、『ビックリハウス』のように一見政治的ではない媒体だからこそ見えるものがあるはずで、そう簡単に結論が出なさそうな研究に私自身が取り組みたかったというのもあります」

 研究にあたって富永さんが着手したのは、「ビックリハウス」全130号の現物を集め、文字情報をテキストデータ化すること。メルカリやヤフーオークション、古書店などで集めたものの、号によっては1冊2000円くらいの高値がついているものもあったという。

「この研究のために多くの民間財団や基金の支援を得て資金調達し、まず1年くらいで全号を集めました。その後、勤務先を辞めて専属の研究補助者として関わってくださった戸井珠美さんが約1000万語にわたるテキスト化を実現してくれました。彼女は間違いなくこの本の最も大きな功労者です」

巻末には「頻出語リスト」も

「べき」への抵抗であり解放

 本書は、「戦争経験」「ジェンダー」「ロック」の視点から、「ビックリハウス」でどのような投稿や編集者とのやりとりがあったかを丁寧に拾い上げ、分析していく。例えば「ジェンダー」の章では、女性の経済的自立や職業を持つ「個の解放」については真摯である一方で、主婦の存在を「節約が好き」「手芸が好き」「小市民」などとステレオタイプ化して距離を取る。かといって、「キャリアウーマン」に共感を寄せるわけでもなく、これらを茶化す傾向があったことを明らかにした。また、女性編集者・読者による「顔」「胸」「尻」などの身体部位に関する記述も多く、これらは笑いや卑下といった自虐的な内容を伴っていたことも指摘している。

「ビックリハウス」は投稿主体の雑誌で、編集者と読者が独特の共同体を形成し、日常の体験や感覚を伝え合っていた。そしてその内容は政治や社会を斜に構えて捉え、真正面の議論を避け、自虐も絡めて笑いに変えてしまう――。なんだか、現代のインターネット上やSNS空間とそう変わらないように思えてくるが、富永さんはそのことを明確に否定する。

「現代に対して安易な示唆を出したくないと思っています。この本を出した時点で、『現代と共通する部分があるか』『今とつなげてどうなのか』といった質問はありうると思っていました。もちろん問題意識の発端として、日本社会の現状に近いな、ということくらいは考えていたと思いますけれど、私はこの研究で今を解き明かしたかったのではなく、まだ明らかになっていない70〜80年代の社会意識を解き明かしたいという思いが強かった。動員や強制を嫌い、自発性を尊重するような当時の流れは、今と似ているというよりは、今に至る土台となったという言い方のほうがいいのではないかと感じています」

 富永さんは本書で、社会運動や政治にかかわるならばこうある/こうする「べき」という価値観に対して、「ビックリハウス」の編集者や寄稿者たちはあえて無関心を標榜し、無理解を堂々と表明することが、彼らの「べき」への対抗であり、「べき」からの解放だったと指摘している。

「多くの社会運動では、自主性や主体性を重要視してきました。問題意識があるからこそ主体的にデモや活動に参加するのであって、嫌がっている人を無理やり引っ張ってくるのは良しとされていないことが多い。でも、例えば労働組合や組織が強い運動をしている人は、『組織の中で行けと言われたから』という形で参加するケースがよくあります。ただ、きっかけは嫌々であっても、労働環境の改善などの意義に気づいて目覚めていくことって十分ある。そうなると、自主性や主体性にこだわることにどれほどの意味があるのか、と考えてしまったのです」

 そして富永さんは、「ビックリハウス」の質的、量的な分析を通して、彼らが「しらけ世代」で豊かな時代に生まれたから社会や政治に不満を持たなかったわけではなく、むしろ、強制や動員を嫌い自主性と主体性、感性やセンスを尊重したからこそ、明示的に集合的な運動へと向かうのも、向かわせるのも嫌ったからではないか、と指摘している。

「社会運動の主張する『きれい事』に異論を唱えたり、差別的な言動を『率直さ』として歓迎するといった行為も、彼らなりの運動だったんだろうなと。そういった言動が、上の世代が形成した教条主義や戦後民主主義的な規範の押し付けに対する対抗としてあったのではないか」

結論は簡単に出ない

 富永さん自身、気鋭の社会学者として、メディアで意見を求められることが少なくない。その時々の社会問題に対する立場や解釈を問われる立場であることは理解しており、それなりの応答責任があることも自覚している。しかし、わかりやすい結論を求める風潮には違和感があるという。

「私は5年くらい、他分野の学術書を読むという『スカイプ読書会』をやっていました。学術研究ってそんなにわかりやすい結論は簡単に出ない。なんでこんなに細かい手続きを踏んで論じていかなければいけないのかと思う人もいるかもしれない。ただ、それが研究なんだ、と改めて実感できました。私が『ビックリハウス』を通して70〜80年代の政治や社会への関心について研究に専念したのも、即時的に社会問題に対する立場や解釈を問われるところから離れたかったからなのだと思います」

 本書は学術書だが「研究者に限らず、広く読まれてほしい」と富永さんは話す。

「たとえば『日本で社会運動が盛んではないのはなぜ?』『日本に住む人が政治について語りたがらないのはなぜ?』といった問いはさまざまな場でよくなされるものだけど、その風潮って今すぐに始まったものではないし、簡単に何かに起因できる話ではない。その『簡単ではなさ』を解き明かすために、はこの本を書いたのだと思います」