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北方謙三さん「日向景一郎シリーズ」インタビュー 父を斬るために生きる剣士の血塗られた生きざま、鮮やかに

北方謙三さん=有村蓮撮影

――まず、驚かされるのは、剣豪・日向景一郎という人物の壮絶な存在感です。最初の最初こそ臆病な青年でしたが、みるみる成長し、凄みを増していきますね。

 ある時から歴史小説を書き始めて、『武王の門』(新潮社、1989年)、それから『破軍の星』(集英社、1990年)と、南北朝を舞台にした歴史小説を書いてきました。それは、歴史の中にいる人物に、性格を付与していく形なんですね。だから、歴史の強烈さがあるけれど、歴史の制約もあるわけです。それをはねのけるような形で、フィクショナルなものを書いていこうという時、どうしても「現代人としての私の常識」が出てきてしまう。その常識をどうやって乗り越えるか。創造物ですからどこかで乗り越えなきゃいけないのに、なかなか乗り越えられなくて。そうなるとやっぱり、「狂わせるしかない」って。

――「狂わせる」。日向景一郎を、ですね。

 そう。まずは狂わせる。狂わせてみよう。それで、これまでの自分から解放されてみよう。臆病な青年が、ヨタヨタしながら、でもどこかで、「何か」を掴んでいく。日向景一郎が「強くなる」っていうんじゃないんだな。あのね、もともと、「何か」を持っているんですよ。その、持っている「何か」を、ちゃんと活(い)かせるのかどうかってことですからね。だから僕が当初考えていたようにはいかなかった。

――臆病だった青年の成長譚ではなく、元来持っているものが曝(さら)け出されていく。

 そうです。技とかは成長しますけど、人間として成長するかどうかは、また別の問題。これに限らず、どの作品でもそうですが、人間は成長するのか、もしかすると退化するかもしれないんですよ。私だって、小説家として退化しているかもしれない。でも、退化のいっぽうで何か別のものを掴んでいる。そういうものの中に人間の変化はあるんですね。もともと持っていたものから、もう1回自分と見つめ合ってみる。向かい合ってみる。それが(「日向景一郎シリーズ」を書く上で)やってみたかったことです。

――景一郎は、津々浦々の道場破りを経て、完全に「けだもの」に化していきます。

「けだもの」の部分はたぶん、人間(誰しも)にあるだろうと思うんです。私にもあるんですよ。だけど、それがどの程度あるかは、わからない。わからないけど、彼は剣で斬って生きていかなきゃいけないので、その「けだもの」のなり方は、相当強烈にならないと、乗り越えられない。そう感じて、だから相当、強烈に書いたつもりです。でもやっぱり、私の常識がどこかに出てきてしまう。

――それは、現代人としての常識ですか。

 そうです。現代人としての常識が出てきてしまいましたね。あの中(物語の中)で、彼は生きていくわけだけど、それは私が生きていくっていうことを考えて、重ね合わせる部分が私はあったと思います。私も日ごろ、生きている時に狂っているわけじゃないですよ(笑)。一応、常識的に、ご飯を食べて、お酒を飲んで、とかやっているわけですよ。

 ただ、小説を書く時は狂っていますからね。「それを小説の人物でもやろう」という、「二重の無駄」みたいなものがあったな。……「二重の無駄」っていうより、そもそも小説は無駄から何かが出てきますから。意義のあることから何かが出てくるとは思っていないんですよ。このシリーズは「二重の無駄があるな」と思いながら書いていたんで、そこに出てきた無駄が彼を作り上げた。かなり強烈に作り上げることができた。

 書いていた時のこと、細部をすごくよく思い出すんですよ、今でも。まだ臆病だった頃の景一郎が、お遣いで酒を買いに行って絡まれて、オシッコちびっちゃう場面とかね。書きながら、「こいつ、この先どうなっちゃうんだろう?」と思っていたな。ずっと怖くて、怖くて、しょうがなくて。……ただね、「怖い」っていうのは一つの才能で、怖いから(剣を)交わせるっていうのはあるんですよね。剣豪の伝記には、「一寸の見切り」っていうんですが、刀が相手にまさに当たらんとする、ごく近くの距離だと動かない。それを「見切る」って言うんですけど、それは小説だから書けることで、小説でしか書けないことをいっぱい書いたと思います。

 

「血脈」にこだわった中上健次を偲ぶ

――景一郎の祖父・将監(しょうげん)は、「父を斬れ。斬らねばおまえの生きる場所はこの世にはない」という言葉を遺します。それが景一郎の人生を決定づけますが、祖父、父、景一郎と3代続く「血脈」について、どんな思いを込めているのですか。

 血脈とかって、私自身の場合はそんなにないんですよ。普通の家。親父のところも普通だし、おふくろのところはちょっと変わった家だったけれど、でもそれは血脈を感じさせるとか何とかじゃなかった。でも、「血を認識する」ってことについて、あの頃って強烈にあったんですよ。何かっていうと、友人ですね。

――ご友人? どなたですか。

 中上健次。彼を見ていると、中上健次はひじょうに血にこだわるわけですよね。血脈なんですよね、あの人はね。血脈だった。それをこだわって、だから自分もこだわってみようかと思ったけど、あれほどこだわれないんですよ。彼の小説は本当に、汚濁。血脈の中の汚濁を描く。だけど汚濁を、汚濁だけで終わらせないんですよ。そこから真珠を一つ摘まみ上げる。それが彼の「文学」です。

――汚濁の中から真珠を摘まみ上げる。壮絶ですね。

 私は汚濁を書こうとすると、全部汚濁になっちゃってダメ。「文学」は汚濁から真珠になるものだけれど、小説の観点で見ると、もう少し物語性があるだろう。物語性を持たせた「血脈」というふうに考えたと思います。書いた当時、中上はまだ生きていたかな、中上は46歳で死んだからね(1992年没)。中上にあって自分にないものはもう明確で、「文学」。でも、自分にあって中上にないもの、それが何かをずっと探すと、行き着くところが「物語」だったんですよ。

――「物語」ですか。

 「物語」と「文学」とは多少、入口が違って最終的には「小説」という頂に行くとしたって、入口はずいぶん違うんですよね。物語性を持たせた「血脈」を、ここで書きました。私は「物語」に行き着いた時に、「これは中上にはできないだろう」って思った。自分は「物語」を書いていけばいい。書いていけばいいし、中上は「文学」をやっていけばいいんだ、って。「文学」は疲弊するね。彼は疲弊した。

「気」を察知する景一郎

――ことあるごとに、景一郎は敵の気配を「気」で察知します。とてつもない緊張感があります。

 たとえば、砂漠に行くと、移動するのは夜なんですよ、昼間は暑いから。でも我々は旅行者だから、夜にテントを張って休む。すると、なんか砂丘の向こうに気配があるんだよね。「ちょっと怖いけど行ってみよう」って行くと、家族が移動している。タクラマカン砂漠ね。今もう入れないですから。新疆ウイグル自治区。そこなんかそうだった。みんな、イスラム教徒の帽子かぶって、コート着て、ロバに引かせた車に家族を乗せて、深夜に移動していた。

 それがね、砂丘の向こうで「気」として感じられる。どうやって耳を澄ませても違うけど、「なんか、なんかおかしいな?」。そういうのが、日常生活の中でも、旅行していて治安の悪い場所に行ったりすると、フッとわかったりすることがあるんですよね。「フッとわかる」としか言いようがない。「気」としか書きようがないんですよ。書きようがないけれど、「気」は読む人にとってリアリティがあるだろうと。景一郎が、それを察知するんだな。

――本当に瞬間的に察知しますよね。すごくゾッとします。

 ゾッとしないでよ(笑)。「気」だって、「良い気」もあれば「悪い気」もあると思うんです。中国の話を書いていると、戦の気配が近づき、暗殺者が近づいてきて……、とかしょっちゅう書いている。それも「気」でしょうね、やっぱりね。何回も「気」って書くんじゃなくて、その後、状況が動いてくると、その「気」がリアリティを持つようにしています。「日向景一郎シリーズ」の『鬼哭の剣』で、手練れ同士が対峙するシーンを書いたの。手練れ同士が構えて、対峙していたら、鳥がフワーッと来て、ポトーンと落ちるんだ。それでその後、びっくりして飛び立つ。それも「気」として書いた。それはたぶん、「日向景一郎シリーズ」の『風樹の剣』を書いた時あたりから掴んだリアリティ。このシリーズを書きはじめたからこそ、このシーンを書けたんだと思う。

 

弟・日向森之助が背負ったもの

――『風樹の剣』の終盤には、景一郎の弟・日向森之助が登場します。森之助は、兄の背中を常に追う。その姿が健気であると同時に、「血」を継ぐ者としての凄みもありますね。

 何で、森之助を書いたのかっていうと、たぶん、日向景一郎が森之助に、自分自身を投影しているから。森之助は、ただ兄貴を見て追いかけているけど、日向景一郎は森之助を通じて自分を見ている。そういう感じで、弟を描写しています。弟も強いからね。2人とも強いから、どうしようもない(笑)。「作った人間」の景一郎、「作られた人間」の森之助。そんな感じになって、最終的には対決する。読者から当時よく手紙が来たな。「どっちが死ぬんですか?」。「そんなの教えるか!」って(笑)。

――「けだもの」の兄弟以外には、人間くさい人物がたくさん登場します。東北の医師・丸尾修理先生、山の剣客・丸子十郎太……愛すべき人物は尽きません。

 丸子十郎太なんてよく書けたと思う。「けだもの」兄弟の叔父貴の鉄馬も良い。ちょっとエッチなところから何から。

――いろいろ引き受けてやってくれる。人間味あふれるキャラクターですね。

 ここまで激しい剣戟が続くと、対決場面にすべてが収斂されてしまうんですよ。それは小説として、もしかすると欠陥かもしれない。対決は、豊かさがなくなる。豊かなものをどこかで書こうとして、いろんな人物を書いていったと思う。

――対決の「対」としての、日常の豊かさを描こうとしたのですね。

 豊かさって何か、ふくらみって何かって考えると、やっぱり、人の心の複雑さだと思うんですよね。対決する時って、1点に向かって、「勝つ」と言うことに向かっている。広がりがないんですよ。だから日常生活の中で、できるだけふくらみを持たせたかった。それでいろいろ書いたけど、書いたそばからすぐにいろんなやつが襲ってくるしね(笑)。あそこまで行くと、極端なところまで行かないと駄目なんで。

現代だからこそ広がる、日向景一郎の世界

――「日向景一郎シリーズ」は5カ月連続で刊行されます。今後、「けだもの」を極める彼の壮絶な物語に魅了される読者が増えると思います。

 昔は、ブツブツ言われたもん。罪のない人妻をダーッと犯して、「俺はけだものになりたい!」だとか何とかいうシーンがあるけど、「こんなの、書いちゃいけないだろ!」って叱られたもん。今は価値観が多様化しているから、「すげえな」って興奮するやつが増えるかもしれない(笑)。わからないけどね。昔は、モラルに少しでも反すると、怒られたんですよ。「書きようがあるだろ!」とか言われて。

――野暮ですね。

 野暮の極みだけど、昔、そういうのあったな。

――それも「文学」なのに……。

 いや、中上と違って俺は「文学」って言わないようにしているので。「小説」として面白ければいいっていうのがまずあるわけですよ。だけど、誰にもわかるようにしなきゃ。誰もがわかって、誰が読んでも面白くなきゃいけない。だけど本当は誰にもわからない。そういうものを、創造物として目指している。ちゃんと書けているかどうかは別として、一応、何も目指さないより良いと思って。

 「今の若い作家たちってどういう感じ?」って言われて、俺、あるときは直木賞の選考委員をやっていたから、いろんな若手の作家の作品と対峙して、本気で読んでやってきたんだけど、やっぱりみんなうまいですよ。ある部分ですよ。だけど、「たかが」がないんだな。

――「たかが」、ですか?

 「たかが物語」「されど物語」の「たかが」。皆、最初から「されど」みたいなこと書いているんだよ。「たかが」のほうがない。だから「才能はあるのに何か物足りない」っていうのがずっとあったんですよ、新人作家に。だから満点をつけたことがない気がする。ちょっと意地悪な選考委員だったかもしれないけど、23年間。

 直木賞の選考委員も変な話、権威になっちゃうんですよ。選考委員をやっていると、「偉いんですね」って言われるわけ。それよりグレードの高い賞もあるのに。作家が権威になったら終わり。権威の外、相対するところにいないといけないのに、そっち行っちゃったら終わりだろう、と。だけど、誰かが選ばなきゃいけない。それで十数年頑張って、23年目に「もう辞めさせてくれ」って辞めたんだけど、俺の場合は居心地が悪かったな。

――今日は「物語」のつくり方、作家としてのご姿勢など、幅広いお話をうかがうことができました。

 「日向景一郎シリーズ」はむしろ、俺が書いた時代よりも、今、読む方が良いかもしれないな。価値観がそれぞれになってきて、今の人は、脳内がひじょうに映像的になっているんですよ。ゲームなんかやってきているからね。ゲームともまったく違う「日向景一郎」の映像が、脳内に広がっていくのが、わかると思います。