1. HOME
  2. コラム
  3. 鴻巣友季子の文学潮流
  4. 鴻巣友季子の文学潮流(第26回) 国際ブッカー賞、インド女性作家による「抵抗の文学」受賞の意義

鴻巣友季子の文学潮流(第26回) 国際ブッカー賞、インド女性作家による「抵抗の文学」受賞の意義

©GettyImages

いまだ残る一夫多妻制を題材に

 先日イギリスの大きな文学賞「国際ブッカー賞」の発表があった。今月はちょっと予定を変えて、その作品と受賞の意義について書こう。受賞したのは、インドの女性作家バヌ・ムシュタク(Banu Mushtaq)の短篇集をディーバ・バスティ(Deepa Bhasthi)が英訳したHeart Lamp(心の灯り)だ。最終候補6作のなかには、川上弘美の神話的SF小説「大きな鳥にさらわれないよう」の英訳版Under the Eye of the Big Bird(米田雅早訳)も入っていた。

 国際ブッカー賞はヨーロッパの国際文学賞のなかではわりあいマイノリティに目配りをしている賞(大英帝国の旧植民地への目配りを含む)だと思うが、この4年間に2回もインドの、非英語の、女性作家が受賞するのは快挙と言える。非欧米、マイナー言語、女性という三つのマイノリティ性が重なっている。

 ムシュタクはインド人の法律家でもあり、女性の人権運動家でもある。訳者バスティによれば、ムシュタクという存在はカンナダ語のbandaya(権力への抵抗、抗議、反乱、革命)という語に集約されるという。インドでは1970年代、80年代に、カースト上層部と男性中心の出版界への抗議としてのカンナダ語文学運動「Bandaya Sahitya」が展開され、最下層の女性が自分たちの経験を自分たちの言葉で書きだした。

 1990年から2023年までに書かれた12篇を収録した受賞作では、南インドに生きるムスリム女性たちの苦しみと無力と抵抗が描かれる。ときにアトウッドの究極の男女差別小説『侍女の物語』『誓願』すら髣髴させる短篇群で、読むのがつらくもなるが、目が離せない。ユーモラスな筆致であることはわかるものの、日本に暮らす者が英訳版で読むと、書かれていることの過酷さと由々しさに圧倒されて、正直なところユーモアを味わうまで行かないこともある。

 この受賞の意義について幾つか述べたい。一つめは、南インドのムスリム社会(インドのある州では2024年に一夫多妻制が禁止されたが、いまも多くの州で認められている)を題材にしていること。そこで暮らす女性たちの日常がリアルに描きだされていること。これは英語文学ではなかなか読めないものだ。インドは8割近くがヒンズー教徒だが、物語の舞台となるインド南部には2800万人ほどのムスリムが住んでおり(2011年時点)、本書に登場する女性たちは、イスラム教の厳しい宗教戒律、家父長制の伝統、カースト制度の規範が交差するなかに押しこめられている。

「黒いコブラたち」「炎の雨」「心の灯り」「いっぺん女になってみてくださいよ、神さま!」といったタイトルの作品が並ぶ。「黒いコブラたち」では、夫に捨てられた妻が子どもらを抱えてモスクの外で座り込みを行うが、世間の暴力的批判を浴びる。これに対して女性たちが迂遠な(それと気づかれない)抵抗運動を繰り広げる。「いっぺん女になってみてくださいよ、神さま!」では、虐げられてきた妻が癌を患い病院に放置される。お金も尽きた彼女が子どもらと路頭に放りだされ家の前で倒れたところに、豪奢に着飾った新妻を連れた夫が帰宅する。

 女性の苦難に対する冷ややかさと無関心。表題作のHeart Lampを少し詳しく紹介しよう。メフルンという女性は若くして結婚させられ5人の子どもがいるが、ある日、9か月の乳飲み子を抱いて生家に帰ってくる。家族、親族は彼女が一人で里帰りしてきたことに驚き、どうしたことかと問いつめる。

 夫は家に寄りつかず、異教徒の女性と遊びまわり、ついには住まいも与えて一緒に暮らしているらしい。メフルンは窮状を訴える手紙を生家に送っていたが、家族は彼女の言うことを信じなかった。信じられないなら確かめにきてくれればよかったのにとメフルンが言うと、長兄はこう反論する。アラビア語などの非英語が混じっているところはそのままカタカナ表記しよう。

 おまえの夫に会いにいって、俺たちにどうしろと言うんだ? とっ捕まえて問い質したところで、彼は、ああ、本当だとも、と言う――そうなったらどうする? モスクに嘆願書でも出すか? きっとおまえの夫はこう言うだろう、確かに俺のやっていることは間違いだ、あの女をムスリムに改宗させて、ニカーしよう、と。そうなれば、その女はおまえのサバティになるんだぞ。そこで俺たちが彼をもっときつく叱ったとしよう。それで、おまえの夫が、俺はメフルンとかいう名のこの女はもう要らないんだ、タラークするつもりだと言ったら、俺たちはどうしたらいい?

 こう言って兄たちはメフルンを夫の元に連れもどす。外に出かけていた夫は帰ってくるとこう言い放つ。

 こいつ(メフルン)がもし俺に説教させようとして兄弟を連れてきたなら、自分で自分の首を絞めるようなもんだ。ひと息で、一回、二回、三回と唱えてやるぞ。そのとたん、ぜんぶおしまいだ。

 追いつめられ、だれにも必要とされていないと思いつめたメフルンは、夜中にマッチを握りしめて庭に出る。そして闇のなか、灯油をかぶるのだった……。

大胆な異化翻訳の試み

 二つめに触れたいのは、作者の創作言語について。ムシュタクはカルナータカ州出身で、カンナダ語で創作している。言語人口は6500万人ほど(たとえば、イタリア語は約6600万人)だが、影響力の上では大きな言語とは言えない。

 上記の例文でいえば、「モスク」は礼拝所、「ニカー」はイスラム法での正式な婚姻、「サヴァティ」は夫を同じくする共妻、「タラーク」はイスラム法における離婚宣言を意味している。タラークに関しては、夫側がこれを口頭で三回唱えるだけで、妻の同意がなくても即時離婚が成立する理不尽な法があった(このトリプル・タラーク法は2017年にインドの最高裁で違憲と判断され、2019年に法的に禁止された)。「ひと息で三回唱えてやるぞ」という夫の台詞はこの語を指す。

 ムスリムおよびインド社会における重要な語を英語に訳してしまうと、ニュアンスが伝わらないと訳者のバスティは判断したのだろう。訳文はアラビア語だけでなく、カンナダ語、ウルドゥー語をそのまま頻繁に取り入れている。日本の翻訳者であれば、割注や脚注を付けたり、その語を翻訳して横にルビという便利なものを振ったりするだろう。タラークなら「離婚宣言」と訳すか、タラークと書いて(離婚宣言を意味する)と割注を付けるか、「離婚宣言」と書いてタラークとルビを振るか。

 バスティはそういう補足は一切しない。そればかりか、英語では通常、外来語を導入するときにはイタリック体を用いるのだが、それもあえてやめたと言う。字体を変えると、英語のなかでそれが異質な要素として浮かびあがってしまうからだ。

 意味は訳文を読みながら推察させる。しかしいくらイタリック体を使わなくても、読者は未知の単語が出てくるところで一々つっかえ、立ち止まる。このような翻訳法は、自国の文化や言語に引き寄せて訳す「同化翻訳」に対して、原作の文化や言語がもつ異質性を強調する「異化翻訳」と呼ばれる。イタリック体の不使用で字面は一見均されていても、異言語を翻訳せず、注釈も付けないというアプローチは、かなり大胆な異化翻訳の一種と言えるだろう。

 この英訳版が読みやすいかと言うと、読みやすくはない。とはいえ、外国文学はもともと異質なものだから、違和感があるのは当たり前で、それを自国の言語や文化に同化してしまうのは横暴ではないかという反省が英語圏でも出てきた。近年では「異質なものを異質なものとして味わう」という翻訳方針に、アメリカやイギリスも魅力を見い出しているようだ(日本の翻訳家が明治20年代にはすでにたどりついていた境地ではあるが)。

カンナダ語やアラビア語の英語支配への抵抗

 国際ブッカー賞は2022年にも、インドのヒンディー語の女性作家に授賞している。ギータンジャリ・シュリー(Geetanjali Shree)の長編をデイジー・ロックウェル(Daisy Rockwell)が英訳したTomb of Sandだ(邦訳は2025年エトセトラブックス刊、藤井美佳訳『砂の境界』)。夫に先立たれた80歳の老女が絶望の淵から立ちなおり、パキスタンへの旅に出るという物語である。インドとパキスタンは1947年のイギリスからの分離独立以来、対立関係にあるが、主人公のMa(母さん)は宗教、国、人種といった多くの境界を果敢に越えていく。

 この翻訳に際して訳者のロックウェルが心したことの一つに、大きな言語(英語)によって原作の小さな言語を抑圧しないように、ということがあった。原文にはヒンディー独特の言葉遊びがふんだんに導入され、ドアや窓や鳥たちまでが言葉を発する。ロックウェルは「作者のシュリ-は新しい言葉を造ったのだ。だから、私もジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を翻訳するぐらい気構えで、新しい訳語を造りだすつもりで臨んだ」と語っていた。

 今回、インド人翻訳者として初めて同賞に選ばれたディーバ・バスティも同じ点に気をつけたそうだ。原文の味わいを生かすため、「アクセント(訛り)をもって翻訳した」という言い方をしている。一読で「わかりにくい」ということそのものが、カンナダ語やアラビア語の英語支配への抵抗となるだろう。イギリス帝国という家父長制度の下にあったインドの物語は、宗主国という義父とは異なる言語を用いることでその強大な言語に対抗することになる。インド人翻訳者による戦略的翻訳と言えるだろう。

 とはいえ、英訳者が読みやすさより原文の特徴や文化の特性を優先しようとする姿勢は、まだまだ稀少と言え、忠実さを旗印にしている日本の翻訳界からすると、腰を抜かすような大胆な改訂や編集が行われることがあるのも事実だ。

進む中短編小説の評価

 三つめの注目点は、同賞において短篇集が初めて受賞したこと。国内外での中短篇集の元気さについては、文学潮流の2024年12月回(「世界的な中短編小説の活況」)にも詳しく書いた。

 前回のブッカー賞などもその例で、ガチガチの本命だったアメリカの黒人作家パーシヴァル・エヴェレット(Percival Everett)の長編James(『ハックルベリー・フィンの冒険』を黒人奴隷ジムの視点から語り直した傑作。邦訳は6月に木原善彦訳で河出書房新社から刊行予定)を押しのけて栄冠を掴んだのは、サマンサ・ハーヴェイ(Samantha Harvey)のOrbitalというノヴェラだ。目下文学賞を総なめにしているエヴェレットが珍しく敗れた相手が中篇というのが印象的だった。

 今回の受賞作Heart Lampも12篇を収めて192ページというコンパクトさ。最終候補6作中、4作が200ページ以下だったことからも、スリム化の傾向は窺えるだろう。とはいえ、本書は小型にして強力な爆弾だ。心して読まれたし。