街角にスプレーで描かれた独特の書体の文字。グラフィティと呼ばれるあの「軽犯罪」を乾いた文体で小説にし、松本清張賞を射止めたのが井上先斗(さきと)さん(30)だ。デビュー作「イッツ・ダ・ボム」(文芸春秋)には、「誰にも顧みられない、理屈でくくれない人をすくいあげられるのが小説の良さ」と語る新人の、目線の低さ・鋭さが随所に光っている。
子どもの頃から本格ミステリーや犯罪小説を愛読し、大学ではミステリー研究会に所属した。あるとき覆面芸術家バンクシーがニュースになっているのを見て、「意味深で、しゃれていて、皮肉げで。あれなら自分にもできるのでは……」と、会社勤めのかたわら本作を書き上げた。
地元の神奈川県相模原市でもグラフィティはよく見かけた。当事者たちにとって「自分はここにいた」という署名なので、「描く」ではなく「書く」ものなのだとも知った。「書き殴っただけのもの、アートっぽいもの、それぞれに『書くしかない』と考えた理由があるはず」
表題にある「ボム」とは、街なかにグラフィティを書くことを意味する俗語だ。物語の軸となるのは、「日本のバンクシー」として論争を巻き起こす謎の人物ブラックロータスと、ホームセンター社員として働きながらボムを続けるTEEL(テエル)。それぞれの動機を持つ彼らの言動や路上バトルには、ハードボイルドの手触りが感じられる。
松本清張賞に挑んだのは、同時代の社会の感覚を小説に落とし込んできた「清張先生」への尊敬の念もあるという。「清張先生は世間からは理解されにくい『仕方なかった』という動機や、登場人物の性格の悪さも丁寧に描きこんでいた」と井上さん。
「自分も順風満帆に生きてきたわけではないし、みんな色々な事情やコンプレックスを抱えている。人それぞれの『正しさ』を、一面的にジャッジしたくない。ただ、『どうしてわかってくれない』という『わかってもらえなさ』でなら読者とも通じ合える。これからも一面的ではないものを書いていきたいです」(藤崎昭子)=朝日新聞2024年10月30日掲載