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JR福知山線脱線事故から20年「どう生きるのか」を問いかける書籍、負傷者らが出版 

事故で負傷、その後の生活が一変

――今回、20年という節目にこの本を出そうとした理由は何でしょうか。

 慰霊式に参列する遺族の方々を見ても、杖をついたり車椅子で来たり、本当に時間が経ったんだなと感じています。そうした中で、これから一体どこまで自分の言葉で当事者として伝えていけるのかと考えるようになりました。いろんな事故、災害のほか、多くの困難を抱えながら生きている方がたくさんおられる社会の中で、そういう方々と一緒に、自分が負った困難をどう伝えていけば自分ごととして重ね合わせることができるのか。それらの経験をとおして、自分の人生がより豊かに人の心に寄り添えるようになるのかと考えたのがきっかけです。

――20年という長い月日が経ち、事故のことを全く知らない世代も増えてきています。改めて2005年4月25日、小椋さんにどんなことが起きたのか振り返っていただけますか?

 当時は宝塚のすぐ隣の生瀬というところに住んでいて、大阪に会社勤めをしていたので、毎日電車に乗って通勤していました。当日はいつもと変わりなく2両目に乗ったんですけど、イヤホンをつけながら寝ていたんです。ガタガタとかなり車両が揺れて、周りの人たちがざわざわし始めたので、そこで初めて目が覚めたんです。そこからもう数秒しかなかったと思うんですけど、ものすごい衝撃で周りの人たちが一斉に前の方に飛ばされていきました。車両がプラスチックの卵パックを握り潰すみたいな感じで、メリメリと自分たちの生存空間が潰れていったという記憶があります。

JR福知山線の脱線事故現場。先頭車両はマンションの地下駐車場にめり込み、2両目がマンションに巻き付くように衝突した=2005年4月25日午前9時46分、兵庫県尼崎市で、本社ヘリから、高橋一徳撮影 (C)朝日新聞社

 事故の現場は本当に爆撃されたような状態でした。57人が亡くなった2両目で、僕は右の足首が折れたのと全身打撲という程度で、奇跡的に軽傷だったんです。事故現場も搬送された病院も野戦病院みたいな状態で、骨が1本折れているぐらいなら後回しという状態だったので入院もさせてもらえず、その日のうちに家に帰されました。

――事故それ自体も壮絶な体験だったわけですけれども、その日を境に小椋さんとご家族の生活も一変してしまいました。

 僕が自分のいるべき場所はここだろうと思って参加し続けたのが、「4・25ネットワーク」という実質の遺族会でした。JR西日本や国と対峙する中で、2両目で生き残った自分の存在が必ず必要になることがあるだろうと思っていました。その他、亡くなった方の乗っていた車両すらわからないという遺族がたくさんおられたので、知りたいという遺族の要望で乗客の記憶を頼りに乗車車両と位置を探す取り組みを始めました。乗客の記憶を集めるつなぎ役ができるのはたぶん自分しかいないだろうなと思いました。その中で遺族の悲しみとか悔しさ、無念というものすごく重い感情を共有することになりましたので、後から振り返ると、知らず知らずのうちに妻の朋子に負担がかかっていたんだと思います。

 

2007年2月1日、JR宝塚線脱線事故・意見聴取会の意見聴取会を終え、東京・霞ケ関で会見する小椋聡さん(左)や遺族ら (C)朝日新聞社

――当時は小椋さんの家で乗車位置探しの会合をしていたので、遺族の方々の思いをずっと受け止め続けることになっていました。精神的なストレスはかなり大きかったのではないでしょうか?

 大変な取り組みでしたが、皆がとても仲が良くて家族みたいなつながりだったんですね。真実を求めるということは実はすごく残酷なことで、それでも知りたいという皆さんが支え合いながら乗車位置を探すという取り組みでした。こうした温かい雰囲気の中でつながりを持たせてもらえたのは、この事故の中で一番思い入れのある取り組みでしたし、かけがえのない時間でした。

 一緒に乗車位置を探していた仲間の中に、僕よりも少し若い女性で結婚前の男性を亡くした方がおられたのですが、事故から1年半のときに自ら命を絶ってしまいました。妻の誕生日会も一緒に開催してくれたような関係性だったので、少し前を向いて歩み始めてくれたかなと思った矢先に、突然亡くなってしまいましたので、すごく大きな喪失感がありました。

――彼女を支えようとしていた朋子さんが大きなショックを受けて精神のバランスを崩して入院してしまい、小椋さんの人生にも転機が訪れましたね。

 会社から家に帰ると、全く表情がなくて布団にくるまっているような日々が続きましたので、もうこれは会社を辞めるしかないなと思いました。おそらくあのまま妻を昼間ひとりで家に置いて、僕が夜中まで帰ってこない生活を続けてたら、たぶん彼女は今頃この世にはいなかったじゃないかなと思うんです。

――西宮の自宅を引き払い、兵庫県の多可町という自然豊かなところに引っ越して、第2の人生をスタートさせました。

 フリーランスになってからは家賃を払うのが必死という感じで、あっという間に家計は火の車になりました。そこから、全く新しい価値観で生きてみようと。この事故があったからこそ、自分の人生はやりたかったことができるようになったんだと思えるように、田舎に行って、ボロボロの古民家をリニューアルすることから始めたんです。引っ越しする頃にはフリーランスのデザイナーとしてなんとかやっていける状態だったんですけど、移住して3年目ぐらいに町から移住希望者の案内役という「定住コンシェルジュ」という役を受けることになって、6年半ぐらい、何百人も移住希望者の相談役みたいな役割をしました。非常にやりがいのある仕事でした。

 

小椋聡さんが事故直後の2両目の車内の惨状を描いた「眼窩之記憶」

弁護士・記者…様々な立場から

――今回の本は、事故10年のときに開かれた展覧会と、昨年11月に東京で開かれた事故20年の対談の採録に加え、他の負傷者や、事故を取材していた記者、遺族や負傷者の活動を支援していた弁護士も多数寄稿しています。

 事故10年目のときに東京で事故の展覧会が開催されたんですけど、事故とは全く関係のない多くの皆さんが見に来て下さった。当事者以外でもこんなにも多くの方が自分のこととしてとらえてくださっていることに感動しました。今回は、当事者以外の皆さんに、それぞれの立場でどのように自分ごととしてとらえたのかをコラムとして書いていただきました。

――中でもJR西日本の被害者対応を担当していた元社員が寄稿して「きっと私は小椋さん御夫妻の20年の歩みで培ってこられた豊かさを一番享受した一人なのだと思う。本当にありがたい関係であると感謝している」と結んでいました。こういう関係に至っていたことに驚きました。

 こういう関係性はなかなか表には出てこないですけど、我が家以外でもこうした関係性はあるんじゃないかという気がしています。僕が最初に加害企業というものの見方に変化があったのは、先ほどお話しした乗車位置探しの取り組みのときに、JR西日本が探すためだけの専任の部署を作ってくださって、本当に一生懸命やってくださったんですよね。そこでまず、「この人たちは本当に加害者なんだろうか…」という視点が芽生えました。

「この人たちはもしかしたら共に歩む人なんじゃないか」という実感を与えてくれたのは、事故から6年半ぐらいに担当者として我が家についてくださった、今回寄稿してくださった方でした。仕事が休みの日にも僕の講演会に来てくれたり、妻のパイプオルガンの演奏会に来てくれたり、まさに公私ともに寄り添って下さった方でした。彼は僕と同い年なんですけど、去年会社を早期退職して、個人的な付き合いが続くことになるんですよね。この書籍の中に脱線事故のことを総括するような原稿を書きたいという話を相談したときに、「私でわかることであれば協力させていただきます」と言ってくださいましたので、共同で書くというプロジェクトがスタートしたんです。

 当初は、僕も当然JR西日本に対して怒っていましたよ。最初の頃は説明もちぐはぐだったり、対応が後手に回ったりということもたくさんありました。大事な仲間を失ったり、妻が病気になったり、そのときには自分のこと以上に怒りの感情はありましたけど、会社が対応することと、そこで働く人とは別だという感覚はずっとありましたね。

 

小椋聡さん(中央)と朋子さん(右)夫妻に、旧大川小学校の校舎前で震災時の状況を語る只野哲也さん=2024年7月、宮城県石巻市、千種辰弥撮影 (C)朝日新聞社

東日本大震災の被災者と交流

――この本には、後半に東日本大震災の被災者で、当時、宮城県石巻市の大川小学校の小学生だった只野哲也さんという方が登場しています。脱線事故と東日本大震災は一見、場所も内容も遠い話に思えますけれども、小椋さんが只野さんと交流を深めた経緯はどういったことでしたか?

 彼が取り上げられていた新聞に、「僕は奇跡の少年じゃない」という見出しがあったんですね。当時、小学5年生で、大川小学校で4人だけ生き残った子どもの1人なんですけど、僕も今まで「2両目で生き残った奇跡の人」と何回も言われました。それは別に悪意があってのことじゃないんですけど、彼の気持ちが手に取るように分かる気がしました。そういったものを彼はずっと背負いながら大人になってきたんだなと考えたときに、「この人と話をしてみたい」と思ったのが最初ですね。

――お互い東北と関西を行き来するなど、交流が深まっていますね。

 もう30歳も年下なんですけど、今はLINEでたわいのないやり取りをしています。年の差はあんまり関係ないですね。共通する思いというのは年齢とか国籍も関係ないという気がするんですよ。今回彼に出会えたのは、僕の中ではすごく意味があることだったと思うんですね。

 僕が言う「物事が伝わる」というのは、たくさんメディアに伝わって、自分の体験をそのまま語ってくれる人が増えることではなくて、自分がその後、気づき得たものがどう人の中に灯っていって、自分が経験したことと重ね合わせて考えることができるようになるのかということなのではないかと思っています。

 最初は苦しかった経験から、人とのつながりや思いを重ねることで「自分の人生が豊かになった」と感じる人が増えていくことにつながれば、おのずと人生の中で大切に感じることは伝わっていくんじゃないかと思うんですよね。僕自身、被害者同士だけでなく、メディアの皆さんとのつながりや元JR西日本の社員の方とのつながりの中で、視野を広げていただいたことはとても感謝しています。

 

兵庫県多可町の自宅の縁側で談笑する小椋聡さんと朋子さん=2019年3月、千種辰弥撮影 (C)朝日新聞社

「人生捨てたものじゃないよ」と伝われば

――前書きに「私たちがそれぞれ経験した人生の歩みから得た『それでも生きることは素晴らしい』というメッセージをお伝えできれば幸いです」とあります。事故で大変な目にあって、その後の人生も大きく変わってしまった立場から、こうしたメッセージを出す意義はどんなことだと思いますか?

 最初の頃は思ってましたけど、今は自分がすごい特殊な経験をしたとは、もうあまり思ってないんですよね。例えば災害の場合は被災者が多いので、自分の思いすら聞いてもらえない人たちがたくさんいる。会社の借金を背負ったり、不治の病になってしまったり、多くの困難を抱えている方たちが世の中にはたくさんいる。その中で、少しでも自分たちが経験したことが、読んでくださる方、話を聞いてくださった方の心に響く部分があって、「もう少し生きてみようかな」という生きる勇気につながれば、自分たちがこれらの困難を経験した意味があるのではないかと思っています。

 我が家もそうでしたけど、本当にどん底のときって、誰も助けてくれないし、出口も見えない。「もう二度と我が家に笑顔が戻ることはないだろう」という感覚になってしまうんですよね。でも3年、5年、10年と過ごす中で、ふと助けてくれる人がいたりする。もがいている中で気付きもしなかったところから、ぽっと光が見えてきたりする。今、困難の真っ只中にいる人たちに、「人生捨てたものじゃないよ」ということが伝われば嬉しいなと思います。

インタビューを音声でも!

 好書好日編集部がお送りするポッドキャスト「本好きの昼休み」で、小椋さんのインタビューを音声でお聴きいただけます(後編は5月1日に配信予定です)。