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毎日料理するのに疲れたら… 家庭料理について考える ジュンク堂書店員さんおすすめの本

記事:じんぶん堂企画室

やる気がなくてもしなくてはならない。それも毎日。おまけに栄養やバランス、コスト、家族の好みも考えながら。
やる気がなくてもしなくてはならない。それも毎日。おまけに栄養やバランス、コスト、家族の好みも考えながら。

毎日の料理は「他力」の営み

 コロナ禍で料理を本格的に始めた人が多いと聞く。現在、再びの緊急事態宣言により、飲食店は20時までしか営業できなくなり、仕事の後にちょっと外食、ということも難しくなった。

 私個人の話で恐縮だが、子が一人いるので、料理はコロナだろうがなんだろうが毎日粛々と、時に嫌々、やっている。外には美味しいものであふれているのに、料理のプロでもない私が作る美味しいという保証もない、好き嫌いの多い子どもが食べてくれるとは限らないものをなぜ毎日毎日手作りしなくてはいけないのか、と、日々鬱々とした気持ちで料理をしている。

 最近『料理と利他』(土井善晴・中島岳志 著、ミシマ社)という本が刊行されたので、“人に料理を作るということ”に何かしらの答えをあたえてもらえるのでは、と早速読んでみた。

 料理研究家、土井善晴氏のベストセラー『一汁一菜でよいという提案』(グラフィック社)は、毎日の献立は具沢山のお味噌汁とお漬物とご飯ぐらいでよいのだ、家庭料理は美味しいものでなくともよいのだ、という内容で、家庭での料理の作り手たちの肩の荷を軽くさせたという世間の評判どおり、読んでいて確かに癒されたことのある私だが、私がいくら一汁一菜でよいと思っても、家族がそれをよいと思っていなければなかなか実行する勇気はないなぁと思っていた。(作る余裕がなくて、結果、一汁一菜になってしまう日も恥ずかしながらあるが。)

 しかし、『一汁一菜~』は単なる料理スタイルの提案だけではなかったことが、この『料理と利他』を読むとよくわかる。土井氏は、中島岳志氏との対談の中で、料理と利他の関係を浄土教の「聖道の慈悲」と「浄土の慈悲」の話から解こうとする。

 「聖道の慈悲」とは自らが行う人間的な慈悲、困った人がいたら助けたいという慈悲で、これはこれで尊いものなのだが、「浄土の慈悲」というのは彼方からやってくる他力におされて何かを行うという慈悲の話で、そこに自分は介入しない。その話の流れから、土井氏は、そもそも和食はおいしくしようと思って作る料理法ではない、おいしいものはもともとおいしいからそれを整える、他力の料理法であるという。

 その時々の素材を見て、感覚と経験に照らし合わせながら少し整えてやればあとはほとんど自然におまかせ、自分の力ではどうにもならない、という考えが、いささか衝撃的であった「家庭料理はおいしくなくていい」という土井氏の言葉にもつながっているようだ。

 確かにそう言われてみれば、レシピに素材を無理に沿わせて(これを政治学者の中島氏が「設計主義的」と言っているが)作って、うまくいかないと落ち込むが、素材それ自体を尊重して整わせることを料理と考えれば、おいしくてもおいしくなくてもそれは素材まかせなのだから、さほど落ち込む必要もない。毎日の生活の中で料理を作る側が疲れないというのはとても大切なことだ。

 そして、作って食べてもらうという関係自体も、自力ではなく他力の観点を入れて考えることができる。素材だけでなく、作るほうも食べるほうも、毎日同じ状態とは限らない。大きな他力という仏教観をベースに、素材選びから調理、そして人との関係まで悟性を働かせて行う毎日の営みが家庭料理なのだ。

家庭料理も社会の一片

 『料理と利他』に呼応させたいのが『「家庭料理」という戦場』(久保明教・著、コトニ社)だ。『料理と利他』が理念的な料理本とすると、『「家庭料理」という戦場』は分析的な料理本だ。(ちなみに、『料理と利他』の「おわりに」で料理研究をしている男性研究者はいないという記述があったが、この本は男性研究者による料理研究本であろう。専門ではないが。)

 1960年代から2000年代までの家庭料理の変遷をたどるこの本は、フランスの哲学者ブルーノ・ラトゥールを扱った『ブルーノ・ラトゥールの取説』(月曜社)や『機械カニバリズム 人間なきあとの人類学へ』 (講談社選書メチエ)など学術的な著書の多い久保氏ならではの分析と硬質な文章で、江上トミ、土井勝、小林カツ代、栗原はるみなど、その時代時代を代表する料理研究家のレシピを読み解くことから各時代の家庭料理ひいては社会情勢まで描き出していて大変興味深い。

 刊行時、一見、料理研究という内容が久保氏のこれまでの著書と結びつかないように思えて意外性で目を引いたが、久保氏の専門が文化人類学だと知って合点がいった。それぞれの料理研究家のレシピで実際に料理を作って実食し、レシピの構成やその味を評し、今の時代の私たちにそれらのレシピがどう感じられるのかというコラムが何篇か挟まれているのだが、このあたりがまさにフィールドワーク。(帯にも「参与観察的」と書かれている。)

 この本が刊行されたとき、「待ってました!」とばかりにすぐに買って、読んだ。日々時間をかけて作ったものが早くてものの数分で目の前から消えていく、料理(ひいては家事全般)という行為に虚しくなっていた私は、家庭料理についての理論が欲しくてたまらなかったからだ。

 本書を読んで、何か明確な答えを得たわけではなかったけれど、その時々の社会情勢などによって家庭料理の在り方は大いに影響を受け、変容することはわかった。その逆もしかり。私が作っている毎日の料理もその社会の一片にすぎない。

 一人一人の生活はもちろんさまざまではあるが、それぞれの生活が、個で立ち向かえない社会の大きな影響を受けているのは確かだ。ごく私的な家庭料理という領域にここまで露骨に社会が顕現するという、なにか我々の生活の中に外部のものが根を張っている感じには敏感になっていたい。ちなみにこの本の「おわりに」では、先にあげた土井氏の『一汁一菜~』について触れられている。この部分の分析も大変興味深いのでぜひ読んでいただきたい。

時短レシピに飛びつく前に

 このごく私的な生活の部分に大いに社会が浸食していることの居心地の悪さについて掘り下げるのにうってつけの本が、人文書読みにはおなじみ藤原辰史氏の『ナチスのキッチン』(共和国刊)だ。

 『「家庭料理」~』とリンクする部分は特に第4章のレシピの思想史の箇所だろう。実際に著者がドイツの古本屋などで見つけた料理本を史料として集め、それらに記載されているレシピから、ドイツの家庭料理の変遷と、特に第二次世界大戦下における家庭料理がどういうものであったのかを明らかにする。

 奇しくも『料理と利他』でレシピが近代的で設計主義的だと中島氏に批判されたように、ドイツの第二次世界大戦下で作られたとりわけ企業のレシピが、土井の言う素材との対話などは無視して、国民の健康を管理するべくいかに効果的に健康を増進するために作られたものなのか。そこに人と素材、人と人との関係への目配りはない。そして女性の労働力が必須の戦争下の国にとって料理を時短化、単純化したことの意味を、現代を生きている私はどう考えればよいのか。

 今の忙しい日々の中で、短時間で簡単に美味しいものが調理できるレシピはまさに私自身も求めていて飛びつきたくなるものではあるけれど、時折その流れに棹をさし、悟性を働かせて料理に向き合う必要があるのではないか。それが料理を自分で作る、ということの私なりの答えかもしれない。

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